「古流」という裏付けのある「剣道」
片手刀法:右片手上段からの正面打ち |
剣道家が「流派」に属していた時代
1972(昭和47)年。小学2年だった私が剣道を始めたころ、元立に立っている先生方は、皆さん大正生まれでした。ですから、現在のように「現代剣道」だけをやっている方はおりませんでした。
大正生まれということは戦前から剣道をやっていた方々です。それは、ほとんどの方が古流のいずれかの流派に属しているということです。剣道に古流という裏付けがあった時代。揺るがない理論と技がありました。
「講話」と「理」
ですから、指導する先生によって、教え方がまったく違いました。例えば、作法が違う。面打ちの教え方が違う。技の理合いの解釈が違う。
小学生だった私は、先生によってなぜ教え方が違うのか、それが大変興味深く、稽古に通うのが楽しみになっていきました。
もう一つの楽しみが「講話」です。稽古が終わって整列し、静座の前に小学生に向けて剣道の講話があった。3分程度だったと思います。
各流派の先生方が日替わりで話をする。これが実に興味深い。各流派に連綿として伝わってきた「理」がある。それを、「剣道」で、あるいは「日常」の生活の中で体現する話。剣道をやっていく上ではもちろん、一人の人間として人生をやっていく上で有意義な話ばかり。学校では絶対に教えてもらえない貴重な話が満載でした。
今では、そういう「講話」はどこの道場でも聴くことはありませんね。指導者に古流というバックボーンがないからです。残念なことです。
そして中学生になったころ、剣道の稽古中に、あの“教え方の違い”について、ふと自分の中で“答え”が出た。
各流派の教え方、言い回しは違うが、言わんとしていること、物毎(ものごと)の根底においての理は同じなんだ、ということが。
小学生の時に、古流の裏付けのある先生方に剣道を教わったことは、私の財産になりました。
古流に習い、剣道で実践
高校で剣道を離れて、45歳の時に再開を決意。同時に二刀を執ろうと決めた。
それにあたって、古流で二刀を教えてもらえる道場を探そう。見つからなければ剣道再開はあきらめよう。そう思いました。
なぜそう思ったのか。
それは、我流でやるなら意味がないと思ったからです。
諸手一刀中段の剣道を、我流でやっている方は、おそらく日本で一人もいないと思います。必ず、最初は指導者から「基本」を習っているはずです。
しかし、これが諸手左上段や二刀となると、片手刀法の基本も習おうともせず、自分勝手な思いつきでやる人が多い。
言うまでもなく、鎌倉から江戸初期にかけての各流派を源流とする「剣術」が連綿と継承され明治期に統合されたものが「剣道」です。
私たちは、この“源流”の部分を「稽古」しているわけです。「古(いにしえ)を稽(かんがえる)」
自分の思いつきでやっているもの、我流でやっているものは「稽古」とは言わず、「練習」と言います。我流でやる剣道ほど、見ていてむなしいものはありません。