2019年4月28日日曜日

リバ剣 息子と稽古② 「竹刀は刀」「一つ拍子」

大刀を腰に帯びるということ


子供であっても武士


 前回の投稿で、2010(平成22)年8月にリバ剣後初めて息子(当時、小4)と稽古した時、スポーツ化した現代の剣道に失望したことを書きました。私が子供の頃に、古流の裏付けのある剣道を学んだ経験を息子に伝えようと決めた。

 「竹刀は刀です。大刀を腰に帯びるということは、子供であっても一人前の武士ということ。子供扱いは一切しません。それがいやだったら、入会しないでください」

 1972(昭和47)年4月。小学2年生だった私が中山剣友会(現:市川市剣道連盟東部支部)に入会するにあたり、母親と一緒に受けた先生の説明です。(その道場についてはこちら
 帯刀するということ、大刀を扱うということ、それが竹刀であってもその覚悟を最初から求められたのです。

 この時点で現在の教え方とだいぶ違うんじゃないでしょうか。
 当時はそういう厳しさを子供たちに求めた一方で、大人たち、自分たちにもそれ以上の厳しさを課していたと思います。

 現在は、子供たちには厳しく指導しても、自分自身の稽古はあまりしないなんていう指導者がよくいますよね。子供たちを指導することだけが自分の"剣道"になっちゃってる人。そんな人は昔はいませんでした。自分はろくに稽古せずに子供たちを指導するなんてあり得ないことです。子供たちは皆、先生が苛酷な稽古をする後ろ姿を見て、自分たちもその厳しさに挑んでいったのです。

 自分の稽古をしっかりやらない人がどんなに厳しい指導をしても、子供たちはどこまでいっても「やらされ感覚」。自ら厳しさを求めようという心が養われているかどうか疑問ですね。

 そういった意味では、昭和の時代の道場は「子供にも厳しかったが、それ以上に大人が自分自身に対して厳しかった」と言えるんじゃないでしょうか。

まずは大人が自分を律し、厳しい稽古に挑むこと


 息子に剣道を「伝える」上で、まずはそこから始めました。
 できもしない、やりもしない人に誰がついていくでしょうか。そりゃあ、うわべだけは言うことを聞き、ついていくふりはしますよね。でも、それでは意味がない。剣道に限らず、息子に身につけてほしいのは、物事の形(かたち)ではなく本質です。
 
 物事の"本質"を見抜く力を養ってもらいたい。そのためには、「これが大人の稽古だ」という稽古を子供に見せること。もう、ここから息子との"真剣勝負"が始まったと思いました。
 大刀(竹刀)を腰に帯びるということは、他人に求める以上のものを自分に課すこと。わが身を律する修行だと思っています。

立ち姿で習った剣道がわかる


 リバ剣して子供たちと稽古するようになり、元立ちするようになって気づいたことですが、立礼をする前のお互いに向かい合った時の立ち姿で、その子がどんな剣道を習ったかが分かる。
 正しい基本を習っているかどうか。厳しい稽古をしているかどうか。そういうことが“立ち姿”から見て取れるのです。

 息子の立ち姿は、着装はまあきちんとできているが、「提げ刀」の仕方が適当。両足のかかとをつけずに立っている。体が静止していない。そんな状態から、立礼をしようとしている。
 初めて私が元に立ち、当時小学4年生の息子がその列にならび、順番がきて向かい合った時、正しい基本が身に付いていないことは一目瞭然でした。

息子の構え


目に留まったのは、撞木足(しゅもくあし)。
 中段に構えた時の左足のつま先が、大きく外側にむいているのです。

 撞木足であるということは、相手に正対していないということ。腰を開いて構えているわけです。
 こういう構えをしていれば、当然、腰が入らない。自分の正中線で刀を振ることができない。正しい打突の姿勢をとることができない。切っ先も自然に中心からは外れてしまいます。

 余談ですが、撞木足はアキレス腱断裂になりやすいという人もいます。

「一つ拍子」の打ち 


 最近は、1拍子(いちびょうし)という剣道家が多いようですが、私は本来の言い方である「一つ拍子」(ひとつびょうし)と言うことにします。

 初太刀で面を打ってきた息子。「二つ拍子」(ふたつびょうし)になっているんですね。
 これは致命的。まさに戦国時代であれば「二つ拍子」であることによって、相手に機を与え、命を落とすことになりかねない。

 大きく振りかぶって打つか、小さく鋭く打つかで、考えている方もいますがそうではありません。大きく振りかぶっても「一つ拍子」で打てますし、小さく鋭く打っても「二つ拍子」になってしまう人もいます。動作の大きさや、速さではないのです。もちろん、音楽用語としての“リズム”とは違います。

 その時の息子の打ち方は、面を打ってきた時に「いち、に」と打っている。「いち」で竹刀を振り上げ、「に」で振り下ろす。「いち」で振り上げた時に一度拍子をとっているんですね。だから振り下ろす時に「に」になってしまう。大きく振りかぶっても、小さく振りかぶらずに打っても同じこと。「二つ拍子」は「二つ拍子」です。

 「二つ拍子」でしか打てない、ということは、上達の妨げになるのです。
 
 剣道には、相手と自分のかかわりの中で成立する「理合」というものがあります。この理合を体現することは、稽古の重要な要素の一つです。

 「一つ拍子」で打つということは、理合を体現するための“前提”になります。「一つ拍子」で打てるようになってはじめて物毎(ものごと)の拍子がとれるようになる。独りよがりではない、相手と自分の運動世界がつくれるようになるのです。 

 「二つ拍子」で打っている人に、「一つ拍子」で打て、と言っても簡単に理解してもらえるものではありません。本人が「二つ拍子」で打っているという自覚がありませんから。

息子と私の稽古。まあ、こんなところからの出発でした。


注目の投稿です

宮本武蔵『独行道』「我事に於て後悔せず」を考察する

後悔などしないという意味ではない 布袋観闘鶏図 宮本武蔵 後悔と反省  行なったことに対して後から悔んだり、言動を振り返って考えを改めようと思うこと。凡人の私には、毎日の習慣のように染み付いてしまっています。考えてみれば、この「習慣」は物心がついた頃から今までずっと繰り返してきた...

人気の投稿です