叫ばれなくなった危惧する声
剣道は「武道」
昭和40年代から50年代、剣道界のあちこちから「剣道のスポーツ化」を危惧する声が上がっていた。
剣道の講習会や大会の前には、"えらい人"が登壇して、「剣道は武道だ、スポーツではない」という話を、必ずと言っていいほどしていたと思う。
今はそういう話を聞くことはありません。
私が30年ぶりに剣道を再開して感じたことの一つに、「剣道のスポーツ化」がだいぶ進んでしまった、ということがあります。
「稽古を続けることによって、心身を鍛錬し、人間形成を目指す『武道』です」
このように、現代剣道を統括する全日本剣道連盟のホームページにも、剣道は「武道」だと定義されております。
しかし、実際の「剣道」がちょっと違う方向に変わりつつあることを、感じている方は多いと思います。
昭和の道場
昭和47年4月。小学2年だった私が道場で剣道を始めた時、指導者の先生から最初にこのような説明を受けた。
- 剣道は武道であるから、礼儀を重んじる。
- 竹刀は刀である。またいだり、心得のない者に貸してはいけない。
- 刀を腰に帯びるということは、子供であっても一人前の武士ということ。子供扱いはしない。
- よって、稽古は厳しいものになるので、同意できなければ入会しないでほしい。
剣道を始める前に、武道を習うという心構えを最初から求められたのです。
子供心に、「スポーツとは違うんだな」と思った記憶があります。
「礼儀」と「スポーツマンシップ」は違う
当時、小学3年になって防具を着用して稽古するようになり、スポーツとの違いを目の当たりにしていきました。
元立ちの先生と一対一で稽古するいわゆる"地稽古"の最中に、竹刀を強く払われて落としてしまったことがあった。竹刀を拾い上げてから稽古再開となると思い、落とした竹刀を拾いに行こうとすると、その先生は次々と打ち込んでくる。竹刀を持っていない私にです。
慌てて竹刀を拾おうとすると、先生は竹刀の先で床に落ちている私の竹刀を弾き飛ばして、道場の隅にやってしまった。
何てことするんだと思いましたけど、稽古が終わって、それを見ていた上級生から、こんなアドバイスがあった。
「落とした竹刀を拾いに行くな。落とした刀に執着すれば、相手に斬られてしまう。刀を落としたら素手で戦え。落とした瞬間に相手の懐(ふところ)に飛び込め。そうすれば、斬られることはない。"組み討ち"にするんだ」(組み討ち稽古とは、こちら)
またある時はこんなことがありました。
子供同士の練習試合の最中、私の相手が転んでしまった。その時、私は相手が起き上がるまで待っていた。するとそれを見ていた先生が烈火のごとく怒りだした。
「お前は何をやっているんだ」
意味が解りません。なんで私が怒られるのか。このときは、その先生からこういう指導がありました。
「相手が転んだときも、打突のチャンスだ。それを見逃してはならない。そこで打たないということは、相手に"情け"をかけたということ。武士にとって"情け"をかけられるということは、恥をかかされたということ。お前は相手に対して、失礼なことをしたんだ」
こういった例を挙げればきりがありません。
剣道は刀を執っての戦いを起源としていますので、「ゲーム」を起源とするスポーツとは、相いれないものが多々あります。
スポーツマンシップは時として、剣道では失礼にあたるのです。剣道で、ガッツポーズをしてはいけないことは、有名ですね。敗者にも礼を尽くすのが剣道です。
スポーツ化した剣道
日本に「スポーツ」がもたらされたのは、明治維新後です。
明治政府が招いた当時の外国人教師が、彼らの生活様式を日本に持ち込んだ。そのひとつが、趣味としてのスポーツでした。
一方、「剣道」は、古武術である剣術あるいは兵法が起源ですから、明治維新よりもさらに数百年前からあった日本独自のもの。
「スポーツ」という概念が日本に入ってくるはるか以前からあるわけです。
それが、戦後、スポーツという分野に「剣道」が組み込まれてしまった。
そうなると、「朱に交われば赤くなる」の言葉どおり、スポーツ化が始まった。
それでも、前述したように、昭和の時代はそれを危惧して「剣道は武道である」ということを、稽古の中でしっかり伝えていたと思います。
現在はとなると、「切り返し」を「打ち返し」と言い換えたり、「稽古」を「練習」と言い換えたりして、物事の本質が解らない大人たちが"言葉遊び"をしている。その弊害がどんなふうに表れているかも知らずに。
これも例を挙げればきりがないので、ひとつだけ。
現在は、「切る」という言葉を剣道の指導で使ってはいけないという人がいる。中学高校の教師に多い。だから、「打ち返し」になってしまう。
「とにも角(かく)にも、きるとおもひて、太刀をとるべし」(『五輪書』水之巻)とは、宮本武蔵が繰り返し説くところです。剣術(剣道)は敵を切るという、極めて端的な目的のためにたてられる理法なのです。これは、決して殺伐とした考えではありません。
「切る」という言葉に反応して、殺人を助長してしまうと思い込むことこそ、殺伐とした考えです。
そうなると、「刀法」を教えられなくなる。刃筋なんてものは関係なくなってしまう。
その結果は、棒をとってのたたき合いです。一部の中高生の試合に見られます。ただの当てっこ。竹刀を打突部位に当てるためだけに特化した方法を、あれこれ考えた末のスポーツになってしまっている。
指導者も、そのやり方で、生徒たちが試合で勝ってくれるものだから、黙認する。
強豪校と言われる有名校がそういうことをするから、審判も旗を上げざるを得なくなって、一本にしてしまう。
もう笑うしかありません。そういったことを、誰も注意できない時代になっちゃってるんですね。情けないかぎりです。
ルールの範囲内でやっている限りは何でもあり、という風潮。
そんな思考が、「剣道をオリンピック種目に」なんていう運動につながっていくんですよ。スポーツの祭典であるオリンピックに、なんで剣道が入れてもらわなきゃいけないんでしょうか。
もし剣道がオリンピック種目になれば、スポーツの枠の中で武道性や武士道精神を主張する矛盾によって、剣道は崩壊します。そのように実質崩壊してしまった武道を、私たちは見てきたはずです。
言うまでもなく、剣道は日本独自の伝統文化です。
現代に迎合して、自らが本質を変えてしまうようなことがあれば、もう伝統文化ではありません。
そういった伝統の技の継承をささえるのは、強い信念をもった心。武士道精神です。
継承された伝統の技と強い精神があって、剣理を追及する稽古ができるのです。
スポーツ化した剣道に、戦国流祖たちが到達した剣理に遡る道はありません。
「古(いにしえ)を稽(かんがえる)」
稽古の意味を胸に刻みながら、これからも「剣道」をやっていきます。
剣道は剣道であってほしい、ただそれだけです。
剣道は日本の伝統文化
言うまでもなく、剣道は日本独自の伝統文化です。
現代に迎合して、自らが本質を変えてしまうようなことがあれば、もう伝統文化ではありません。
そういった伝統の技の継承をささえるのは、強い信念をもった心。武士道精神です。
継承された伝統の技と強い精神があって、剣理を追及する稽古ができるのです。
スポーツ化した剣道に、戦国流祖たちが到達した剣理に遡る道はありません。
「古(いにしえ)を稽(かんがえる)」
稽古の意味を胸に刻みながら、これからも「剣道」をやっていきます。
剣道は剣道であってほしい、ただそれだけです。