2019年5月31日金曜日

剣道はスポーツ化してよいのか

叫ばれなくなった危惧する声


剣道は「武道」


 昭和40年代から50年代、剣道界のあちこちから「剣道のスポーツ化」を危惧する声が上がっていた。
 剣道の講習会や大会の前には、"えらい人"が登壇して、「剣道は武道だ、スポーツではない」という話を、必ずと言っていいほどしていたと思う。
 今はそういう話を聞くことはありません。

 私が30年ぶりに剣道を再開して感じたことの一つに、「剣道のスポーツ化」がだいぶ進んでしまった、ということがあります。

 「稽古を続けることによって、心身を鍛錬し、人間形成を目指す『武道』です」

 このように、現代剣道を統括する全日本剣道連盟のホームページにも、剣道は「武道」だと定義されております。

 しかし、実際の「剣道」がちょっと違う方向に変わりつつあることを、感じている方は多いと思います。

昭和の道場


 昭和47年4月。小学2年だった私が道場で剣道を始めた時、指導者の先生から最初にこのような説明を受けた。

  •  剣道は武道であるから、礼儀を重んじる。
  •  竹刀は刀である。またいだり、心得のない者に貸してはいけない。
  •  刀を腰に帯びるということは、子供であっても一人前の武士ということ。子供扱いはしない。
  •  よって、稽古は厳しいものになるので、同意できなければ入会しないでほしい。

 剣道を始める前に、武道を習うという心構えを最初から求められたのです。
 子供心に、「スポーツとは違うんだな」と思った記憶があります。

「礼儀」と「スポーツマンシップ」は違う


 当時、小学3年になって防具を着用して稽古するようになり、スポーツとの違いを目の当たりにしていきました。
 
 元立ちの先生と一対一で稽古するいわゆる"地稽古"の最中に、竹刀を強く払われて落としてしまったことがあった。竹刀を拾い上げてから稽古再開となると思い、落とした竹刀を拾いに行こうとすると、その先生は次々と打ち込んでくる。竹刀を持っていない私にです。
 慌てて竹刀を拾おうとすると、先生は竹刀の先で床に落ちている私の竹刀を弾き飛ばして、道場の隅にやってしまった。
 何てことするんだと思いましたけど、稽古が終わって、それを見ていた上級生から、こんなアドバイスがあった。

 「落とした竹刀を拾いに行くな。落とした刀に執着すれば、相手に斬られてしまう。刀を落としたら素手で戦え。落とした瞬間に相手の懐(ふところ)に飛び込め。そうすれば、斬られることはない。"組み討ち"にするんだ」(組み討ち稽古とは、こちら

 またある時はこんなことがありました。
 子供同士の練習試合の最中、私の相手が転んでしまった。その時、私は相手が起き上がるまで待っていた。するとそれを見ていた先生が烈火のごとく怒りだした。
 「お前は何をやっているんだ」
 意味が解りません。なんで私が怒られるのか。このときは、その先生からこういう指導がありました。

 「相手が転んだときも、打突のチャンスだ。それを見逃してはならない。そこで打たないということは、相手に"情け"をかけたということ。武士にとって"情け"をかけられるということは、恥をかかされたということ。お前は相手に対して、失礼なことをしたんだ」

 こういった例を挙げればきりがありません。
 剣道は刀を執っての戦いを起源としていますので、「ゲーム」を起源とするスポーツとは、相いれないものが多々あります。 
 スポーツマンシップは時として、剣道では失礼にあたるのです。剣道で、ガッツポーズをしてはいけないことは、有名ですね。敗者にも礼を尽くすのが剣道です。 

スポーツ化した剣道


 日本に「スポーツ」がもたらされたのは、明治維新後です。
 明治政府が招いた当時の外国人教師が、彼らの生活様式を日本に持ち込んだ。そのひとつが、趣味としてのスポーツでした。

 一方、「剣道」は、古武術である剣術あるいは兵法が起源ですから、明治維新よりもさらに数百年前からあった日本独自のもの。
 「スポーツ」という概念が日本に入ってくるはるか以前からあるわけです。
 それが、戦後、スポーツという分野に「剣道」が組み込まれてしまった。

 そうなると、「朱に交われば赤くなる」の言葉どおり、スポーツ化が始まった。
 それでも、前述したように、昭和の時代はそれを危惧して「剣道は武道である」ということを、稽古の中でしっかり伝えていたと思います。

 現在はとなると、「切り返し」を「打ち返し」と言い換えたり、「稽古」を「練習」と言い換えたりして、物事の本質が解らない大人たちが"言葉遊び"をしている。その弊害がどんなふうに表れているかも知らずに。

 これも例を挙げればきりがないので、ひとつだけ。
 現在は、「切る」という言葉を剣道の指導で使ってはいけないという人がいる。中学高校の教師に多い。だから、「打ち返し」になってしまう。
 「とにも角(かく)にも、きるとおもひて、太刀をとるべし」(『五輪書』水之巻)とは、宮本武蔵が繰り返し説くところです。剣術(剣道)は敵を切るという、極めて端的な目的のためにたてられる理法なのです。これは、決して殺伐とした考えではありません。
 「切る」という言葉に反応して、殺人を助長してしまうと思い込むことこそ、殺伐とした考えです。
 そうなると、「刀法」を教えられなくなる。刃筋なんてものは関係なくなってしまう。
 その結果は、棒をとってのたたき合いです。一部の中高生の試合に見られます。ただの当てっこ。竹刀を打突部位に当てるためだけに特化した方法を、あれこれ考えた末のスポーツになってしまっている。
 指導者も、そのやり方で、生徒たちが試合で勝ってくれるものだから、黙認する。
 強豪校と言われる有名校がそういうことをするから、審判も旗を上げざるを得なくなって、一本にしてしまう。
 もう笑うしかありません。そういったことを、誰も注意できない時代になっちゃってるんですね。情けないかぎりです。

 ルールの範囲内でやっている限りは何でもあり、という風潮。
 そんな思考が、「剣道をオリンピック種目に」なんていう運動につながっていくんですよ。スポーツの祭典であるオリンピックに、なんで剣道が入れてもらわなきゃいけないんでしょうか。
 もし剣道がオリンピック種目になれば、スポーツの枠の中で武道性や武士道精神を主張する矛盾によって、剣道は崩壊します。そのように実質崩壊してしまった武道を、私たちは見てきたはずです。

剣道は日本の伝統文化


 言うまでもなく、剣道は日本独自の伝統文化です。
 現代に迎合して、自らが本質を変えてしまうようなことがあれば、もう伝統文化ではありません。

 そういった伝統の技の継承をささえるのは、強い信念をもった心。武士道精神です。
 継承された伝統の技と強い精神があって、剣理を追及する稽古ができるのです。
 スポーツ化した剣道に、戦国流祖たちが到達した剣理に遡る道はありません。

 「古(いにしえ)を稽(かんがえる)」
  
 稽古の意味を胸に刻みながら、これからも「剣道」をやっていきます。

 剣道は剣道であってほしい、ただそれだけです。

 

2019年5月30日木曜日

平成25年市川市民剣道大会 部門別連覇、総合3位

出場者300名の個人戦、総合の決勝トーナメント進出


部門別は連覇


 2013(平成25)年10月。出身地である市川市の市民剣道大会個人戦に出場しました。

 前年に、33年ぶりにこの大会に出場し、「三段以下45歳以上の部」で優勝しています。(その様子はこちら
 この年も、同じ部門に出場。四段に昇段してしまえば出場できない部門ですから、しっかり勝っておきたいところです。

 この部門に出場する方は、大人になってから剣道を始めた方か、学生以来のブランクがあって再開したばかりの方。こういう方々が、何かのきっかけで剣を執り、稽古を積んで試合に出てくる。
 年のせいでしょうか、そういう姿を見ていると涙があふれそうになってくるんです。私もリバ剣組なんですけどね。
 人間て素晴らしいなって。いくつになっても何かを学ぼうとチャレンジするんですね。

 他に楽しんでできるスポーツはたくさんあると思うんですけど、なにも剣道なんてつらい稽古をしなければならないものを選ばなくていいんじゃないかなって。それでもみんな剣道が好きで、こうして試合にも出てくるんですね。
 特に、大人になってから剣道を始めた方には敬意を持ちます。試合で一勝をあげることはなかなか難しいかもしれませんが、あきらめないでほしい。いつもそういう気持ちになります。

 前年に続いてこの年も「三段以下45歳以上の部」で優勝しました。
 この年は、新たにリバ剣した方が数名参加されて、出場者の顔ぶれもだいぶ変わっていました。その中には、強豪校出身の方もおり、白熱した試合が多かったですね。
 なんとか、総合の決勝トーナメントに駒を進めることができました。

市川市剣道選手権


 個人戦出場者約300名。市民大会にしては規模が大きいと思います。
 9部門の優勝者が総合の決勝トーナメントで争う市川市剣道選手権。

 9部門それぞれの優勝者を見て、驚きです。私以外は、市や県の現役代表選手か元代表選手。ただのリバ剣おやじなんて私だけです。笑

 前年の大会の時もそうだったんでしょうけど、周りを見る余裕がありませんでしたから、分かってませんでした。
 ちょっと、大変なところへ出てきちゃったなと思いながら、組み合わせの抽選に臨みました。

 前年は、一番最後にくじを引いて、最強部門のひとつ「四、五段40歳未満の部」の覇者との対戦になってしまった。なので、この年は一番最初にくじを引いた。
 抽選の結果、一回戦のお相手は「壮年女子の部」の優勝者に決まりました。

 ちょっと違う緊張感が走りました。
 「300人が見てる前で女性に負けたらどうしよう」って。
 実際に前年は七段の男性が女性に負けているのです。私のお相手は、毎年このトーナメントに進出している方。気が抜けません。

一回戦


 試合開始。蹲踞の姿勢から「はじめ」の号令で立ち上がり、上下太刀(二刀の代表的な構え、上段の構えの一種)に構えた。
 お相手の女性は一刀中段の構え。
 「打突部位がガラ空きだな」
 すぐにそう思いました。

 「構え」というのは不思議なもので、正しく構えていても打突部位がガラ空きな人と、まったく打つ隙の無い人がいるんですね。
 お相手は二刀者相手にどうしたらいいか分からないようで、不安な気持ちが構えに表れている。ちょっとかわいそうになってしまいましたが、勝負ですから仕方ありません。
 お相手が居ついているところを「面」で二本。準決勝進出を決めました。

準決勝


 次のお相手は「四、五段40歳未満の部」の優勝者。20代で五段の方。現役の市の代表選手です。
 しかし、二刀との対戦は初めてと見えて、やりずらそうにしてました。
 この方は身長が180cm以上ありましたから、私もやりずらかったんですけどね。
 試合は、延長戦に入りました。

 現役選手はやはり違いますね。やりずらそうにしてても、数分の間に私の隙を見つけるんですね、ちゃんと。
 最後は「引き胴」で負けた。まったく同じ展開、以前にもありました。(その試合はこちら
 お相手は、この後の決勝でも勝利し、市川市剣道選手権の覇者になりました。

 現役世代との対戦まではこぎつけられるようになりましたが、壁は厚いですねぇ。


 リバ剣して、4年になろうとしていたころ、49歳の時のことです。


追記

 大会中、二人の方が私のところに挨拶にみえた。
 一人は、私と同年代の方。もう一人は、20代の方です。
 お二人とも、左手に竹刀の大小を提げて。

 前年のこの大会で、二刀で戦う私の姿を見て、二刀を始めたそうなんです。
 ちょっとびっくりしてしまいました。

 私の目標は、どんな大会でも優勝することですが、最終的な目標は、私の二刀流を見た子供たちが、興奮して眠れなくなるような二刀流をやること。私がそうだったように。(その様子はこちら

 まずは、大人二人を眠れなくしたみたいです。笑


 

2019年5月29日水曜日

平成25年浦安市春季市民剣道大会 壮年の部で準優勝!

壮年の部、決勝で敗れる

正二刀、上下太刀の構え、左足前
正二刀の上下太刀の構え

稽古量は充分、自信をもって試合に臨む


 2013(平成25)年5月。浦安市春季市民剣道大会に参加しました。浦安市民大会は春に個人戦、秋に団体戦を行なっています。なので、今回は個人戦のみ。
 この時私は49歳。壮年の部に出場しました。

 前回の投稿までに、OOT範士にアドバイスをいただいたのがきっかけで「手の内」の稽古に取り組み始めたことを書きました。
 その「手の内」の稽古を始めて半年たち、かなり自信もついてきた。稽古量を見ても、もうこれ以上は無理というところまでやっている。(当時の稽古メニューはこちら
 しかもこの前年、この大会部門別でリバ剣後に初優勝している。(その様子はこちら
 そうなれば、まずは壮年の部の連覇を目指すしかありません。
 
 しかし、この時私の段位は三段。この大会に出て、私より段位が低い方と当たったことはありません。皆さん私よりも高段。油断は禁物です。
 3回戦までは順調に勝ち進みました。
 

準決勝


 準決勝のお相手は剣道七段の方。私よりも若く剣道強豪校出身の公務員。稽古をする時間のいっぱいある人です。微笑

 試合が始まると、お相手は諸手上段に構えた。私は試合で上段の構えと対戦するのは初めて。
 お相手はひと振りで決めようとしているのか、無駄打ちしてこない。
 私の出ばなをとらえる自信があるようだ。しかし私は終始落ち着いていて、お相手の攻めに動かされることがないよう、機をうかがっていました。

 すると、お相手が徐々にいら立ちはじめた。
 諸手上段の方から見たら、正二刀は打つところがないんですね。諸手上段に対する正二刀は上下太刀(写真上)に構えているだけで、ほぼ完璧な防御になってしまう。

 主審の「やめ」がかかった。時間切れです。4分間の試合時間が、あっという間に感じました。延長戦は一本先取した方が勝ち。

 「延長、はじめ」

 主審の号令とともに諸手上段に構えたお相手。私がやや遅れて上下太刀に構えた瞬間、お相手は中段に構えを戻して突いてきた。

 「うぉーっ!」

 聞こえたのは観覧席からの歓声です。
 お相手が構えを中段に戻し「突き」にくる刹那、私の小刀がその竹刀を斬り落とし、同時に大刀が「面」をとらえた。
 考えて打ったのではなく、気づいたら体が反応して打突が完了してた。旗も3本上がってました。

決勝


 壮年の部、決勝。これに勝てば2連覇。
 
 ちょっと、おごりがありましたね。準決勝まで会心の試合をしてましたから。
 気持ちは、この後の"総合の決勝"の方にいっちゃってました。

 試合が始まりました。
 正直、あせりました。試合開始直後から。
 お相手は40歳の元実業団選手。私が仕掛けたり誘ったりする技が読まれていて、まったく通用しないのです。

 後で聞いた話ですが、この方は私と対戦したくてこの大会に参戦したそうで、事前にかなり研究されたそうなんです。
 立合いの中で、一本を取れる気がまったくしないのです。
 試合はまたも延長戦に。

 今から考えれば未熟でした。
 機をつくれないなら、お相手が打ってきたところを仕留めようと思ってしまった。
 そう思うこと自体が、もう受け身なんですね。
 初心者には通用しても、上級者には通用しませんよね。

 お相手が「面」に来たところを「面」で仕留めにいった。
 間に合うはずはありません、私が動かされてるんですから。勝敗はその時点で決まってました。

敗因は過信


 正しい片手素振りの稽古で、手の内の冴えが身に付き始めて、過信があったと思います。
 打突の速さと、手の内の冴えがあれば、なんとかなると。

 攻めて崩す、攻めて動かす、そういった「攻め」を軽視していた自分に気づかされました。

 試合で負けるのは、本当に悔しいですけど、必ず大きな発見があるんですよね。
 勝っていたら気づけないことなんです。
 
 今回も、克服すれば必ず成長できる課題をいただきました。
 

追記

 表彰式が終わって散会となり、着替えて会場を後にした。
 駐車場に向かう路地を歩いていると、後ろから小学生の低学年らしい子供と父親の声が聞こえてきた。

 「お父さん、今日、二刀流がいたね」
 「なかなか見られないんだよ。よかったね」
 「うん!」

 自分の子供の頃と重なっちゃいまして、熱いものがこみ上げてきました。
 そして、さらに精進することを心に誓いました。
 
 (子供のころ初めて二刀流を見たときの様子は、こちら



2019年5月28日火曜日

剣道二刀流 手の内の冴えが劇的に変化④ 二天一流「切っ先返し」

切っ先返しで打つ

竹刀の重心を知ることは重要
黒いビニールテープは竹刀の重心位置を示す

「切っ先返し」とは


 切っ先返し(きっさきがえし)という言葉。聞いたことある方もいらっしゃると思います。時代劇や剣豪小説などで見聞きしたことがあるのではないでしょうか。
 
 しかし大変残念なことに、ほとんどの場合誤解されて伝わっているんです、「切っ先返し」という刀法が。

 時代劇や剣豪小説に登場する剣術遣いが「切っ先返し」と称して繰り出す技は、たいていの場合、手首をひねりながら切っ先を大きく右から左に回したり、左から右に回したりして斬ろうとする。あるいは、袈裟斬りに振り下ろした瞬間、刀の刃の向きを変えて斬り上げる、といった動作をする。
 これらはいずれも「切っ先返し」ではありません。

 第一の構(かまえ)、中段。太刀さきを敵の顔へ付けて、敵に行相(ゆきあ)ふ時、敵太刀打ちかくる時、右へ太刀をはづして乗り、又敵打ちかくる時、きつさきがへしにて打ち、うちおとしたる太刀、其儘(そのまま)置き、又敵の打ちかくる時、下より敵の手はる、是(これ)第一也。

 これは、『五輪書』の一節で、宮本武蔵が約400年前に制定した「五方ノ形」(ごほうのかた)の一本目を、武蔵自らが解説した文章です。
 ここにある「きつさきがへしにて」とは、まさに「切っ先返し」のことです。

 "返す"という言葉には、"元に戻す"という意味があります。
 では、切っ先を元に戻すとは、どういうことなのでしょうか。

刀(竹刀)の重心を中心に回転させる


 切っ先(剣先)を元に戻す。どこに戻すかといえば、構えた位置、中心、打突部位などにです。しかも、戻すのは切っ先(剣先)だけ。

 「それってどういうこと?どうやって打つの?」って思うと思います。
 
 振り上げた刀(竹刀)を振り下ろすとき、打突部位に到達する寸前に、柄を握った拳(こぶし)を引き上げるのです。
 片手であればその拳です。諸手保持であれば柄頭にちかいほうの拳(通常は左手ですね)を鋭く跳ね上げるようにする。
 
 切っ先は打突部位に向かって振り下ろされていき、柄側は上方に跳ね上がる。
 つまり、刀の重心点を中心に、刀が回転する運動に瞬間的に変わるわけです。
 これが、「切っ先返し」であり、この方法で打突することを「切っ先返しの打ち」といいます。

 これは、片手刀法でも諸手刀法でもできます。
 普段、剣道で諸手で稽古していらっしゃる方々も、「切っ先返し」とは知らずにやっている方もいると思います。
 実際に、高段者の先生に竹刀で打突されて、「パクン」といい音がしてもまったく痛くない、という経験をしたことがあると思います。鍛錬したしなやかな手首を遣って、打突の瞬間に、竹刀を重心を中心に回転させているのです。

手の内の"冴え"


 前回の投稿までの3回にわたって片手刀法の「手の内」の稽古について記述しました。
 「手の内」は素振りで稽古することが大事であること。
 "正しい"素振りの仕方を知ること。 
 「太刀の道」をつきとめること。
 そして今回の、「切っ先返し」で振ること。

 正しい片手素振りの稽古を始めて半年たった頃には、毎日2,000本の素振りをやるようになっていました。右片手1,000本、左片手1,000本です。
 内訳は、朝出勤前に左右200本ずつで400本、これが1セット。昼休みに職場で1セット。夜、帰宅してすぐに2セット。就寝前に1セット。これで2,000本です。

 これを、やらなければならない数字として、自分に課したわけではありません。
 もっとやりたかったけど、これ以上は時間的に無理だったということです。(この4年後に急性リンパ性白血病と診断されるまで、毎日続けました。)

 これを実践していって身に付いたのは、手の内の"冴え"です。

 以前は、諸手で打ってくる一刀者に打ち負けることを恐れて、虚(きょ)をついて打っていったり、小刀でお相手の竹刀を押さえ込んで大刀で打つことばかり考えていました。
 しかし、手の内の冴えを身に付けてからは、お相手の動作を起こそうとする刹那を、仕留めることができるようになった。
 たとえ「相面」(あいめん)になっても絶対に打ち負けないという自信が持てたのです。
 自分の剣道が驚くほど変わりました。

 「キミは手の内が不十分だ」

 OOT範士のこの言葉がきっかけで、すべて始まったことです。(その時の様子はこちら
 剣道をやっていく上で、かけがえのない"財産"を手に入れることができました。
 OOT先生には、感謝しても感謝しきれません。


追記
 OOT先生は、元警視庁剣道主席師範で剣道八段範士。
 実は私と同姓で、住まいもご近所。しかし姻戚関係はありません。笑
 
 

2019年5月27日月曜日

剣道二刀流 手の内の冴えが劇的に変化③ 「太刀の道」で振る

素振りで「太刀の道」を探し出し、確認し、体得する


"ゆっくり振る"には忍耐が必要


 前回の投稿で、二天一流の片手素振りを習ったことについて書きました。(その内容はこちら

 極意は、ゆっくり静かに振ること。

 「それって、実践に役立つの?」って思いました。スローモーションのように木刀を振って、いったい何が身に付くのだろうと。
 しかし、指導してくれた方の言う通り、だまされたと思って、毎日やってみることにしました。

 正しい手順でゆっくり振ると、すぐに気づきました。
 「これはキツイ」と。
 前進後退してビュンビュンと早く振った方が、よっぽど楽です。
 50~100本はやろうと思っていましたが、あまりのキツさに集中力が続かず、初日は20本程度しかできませんでした。
 
 無理はせず、「正しく」集中してできる本数をやろうと決め、毎日少しずつ増やしていきました。
 そして、一週間がたち、一日に50本ぐらい振るようになった時、ちょっと変化があったのです。
 
 キツイと思いながらやっていた片手素振りが、キツくない。重いと感じていた木刀が、重くないのです。
 徐々にそうなったのではありません。一週間たったころ突如としてそうなったのです。
 これを継続していけば、もっと大きな変化が得られるのではないかという、期待が膨らみました。

 しかし、あせりは禁物。通常の速さで素振りをするならどんどん本数を増やせますけど、スローモーションでやってますからなかなかそうもいかない。50本ぐらいがちょうどいいと思い、そのペースで毎日続けました。

理想の素振りには「手応え」がある 


 ビュン!

 いつものように、スローモーションで素振りをしていたつもりが、突然、木刀が空気を斬った。目にも止まらぬ速さで振ったのです。
 そうしようとしたのではありません。力加減はいつもと同じ。木刀が勝手に走ったという感じです。

 二天一流の片手素振りを始めて2カ月が過ぎたころのことです。衝撃でした。

 「これが宮本武蔵が言う〈太刀の道〉なんだ」

 この時、木刀の抵抗をまったくといっていいほど感じなかったのです。気づいたら振り終わっていた。構えた位置から、振り下ろした位置まで、木刀が瞬間移動したような感じといったらいいでしょうか。
 木刀の重心を意識して、ゆっくり静かに"正しく"振り続けた結果の出来事です。

 宮本武蔵が『五輪書』の中で言う「太刀の道」とは、単なる軌道や刃筋のことではない、ということを体感した瞬間でした。
 
 腕力や筋力で、木刀の重量をねじ伏せて振るのではなく、「太刀の道」で振るということが解った。
 しかし、これはまだ"偶然"の域を出ない。何百回、何千回振っても「太刀の道」で振れるようになるために、片手素振りの稽古を続けました。
 ゆっくり振っても、ビュンと木刀が走ってしまう。なので、次第に素振りの本数も増えて、一日に数百本やるようになっていきました。

 本数が飛躍的に伸びたのはもう一つ理由があって、当初は右片手だけでやっていた素振りを、左片手でも同じ本数をやるようになったから。
 最終的には、正逆両方できる二刀者になるという目標がありますから。

とある日本画との出会い


 余談ですが、休日に当時小学生だった息子と美術館に出かけることが、たびたびあった。二天一流の片手素振りをやり始めたころのことです。
 ある美術展で一点の日本画の前に立ったとき、ハッと息をのんだ。

 『初夏浄韻』という題名のついた、深緑の木々が生い茂った山中にある小瀑を描いた絵です。後藤純男さんという日本画家の作品でした。
 山の中にたたずむ小さな滝。描かれた落水を見てこう思った。

 「滝の水は誰かによって垂直に落とされているのではなく、自らの重量で理に逆らうことなく垂直に落下している」

 片手素振りをしている時、構えた時は正中線上にあるのは木刀の重心だけ。(写真上)
 振り始めると、重心を正中線上に維持したまま拳(こぶし)を正中線上にもってきますから、剣先も正中線上にきます。太刀筋が正中線と一致するわけです。そのまま垂直に振り下ろせば「正面」を斬ることができる。

 この、正中線を「垂直」に振り下ろすということが、非常に難しいのです。
 垂直に真っすぐ振ろうと手首をこねれば微妙にずれる。鏡はウソをつきませんから、ハッキリそこが見えてしまうのです。

 『初夏浄韻』の絵を見た時、手首や腕の振り方の調節で木刀を垂直に振ろうとしていた自分に気づいた。
 木刀の重さでおのずから落下するその動きに、腕が加勢していくように振ればいいんだと分かったのです。

木刀の重さを引き出して振る


 後藤純男画伯の日本画を見て感じたことをそのまま素振りでやってみた。

 垂直に振れるんですよ。片手正面素振りの太刀筋が正中線に一致するんです。こういうことか、って思った。

 これで、片手刀法のための"正しい"片手素振りを理解できた。
 あとは、この稽古が、どう「手の内の冴え」に結びつくのかですね。


2019年5月26日日曜日

剣道二刀流 手の内の冴えが劇的に変化② 二天一流の片手素振り

片手刀法のための「正しい」片手素振り

重心位置をマークし頭上の正中線上に合わせてかまえる。
実際は竹刀ではなく木刀を使い、防具は着けずに素手で持つ。

二天一流武蔵会の片手素振りを習う


 前回の投稿で、現代剣道最高位の「範士」の称号をもつOOT先生(元警視庁剣道主席師範)から、直接、手の内に関するご指導をいただいたことを書きました。

 "相手を仕留める"ことができる「手の内」を身につけるには、正しい素振りで稽古することが重要で、OOT先生は奉職以来毎日数千本の素振りをされてきたとのこと。

 ならば、最初に「正しい素振り」を知らなければならない。私の場合は二刀なので、片手刀法のための「正しい"片手"素振り」だ。

 剣道をやっている方なら、片手素振りはしたことがあると思います。重い木刀を使ったり、普段は諸手で使用している竹刀をその時だけ片手で振るわけです。
 これは、「正しい片手素振り」を習得しようとしてやっているわけではなく、ウォーミングアップやトレーニングとしての"片手素振り"。片手刀法としての片手素振りではありません。

 私は、片手刀法のための「正しい片手素振り」を習得するため、二天一流武蔵会の稽古会でその方法を教えて頂きました。

軽い木刀で素振りをする


 一般的には、「木刀」といえば全剣連が規定する寸法で作られた木刀のことをさすと思いますが、古流諸流派で使用される木刀は、その流派によって形状が異なります。
 材質や太さ、長さや反りなどが違うのです。

 二天一流で使用される木刀の特徴は、細身で軽量であること。竹刀よりもやや軽くできています。
 これは流祖宮本武蔵が、二天一流「五方ノ形」を門人たちに伝えるにあたり、細身で軽い木刀を使用したと伝えられているからです。
 『五輪書』にあります「太刀の道」を、軽い木刀で修練し身に付ければ、重い真剣も刃筋正しく振ることができるということなのです。

 さて、その「正しい片手素振り」の方法ですが、二天一流用の木刀の大刀を使います。
 なければ竹刀よりも軽いものであればいいと思います。桐の木刀でもいいですし、竹刀の竹を2枚張り合わせてビニールテープで巻いたものでも構いません。

 まず、その木刀の重心位置にビニールテープなどでしるしをします。
 そして、姿見の鏡の前に立ち、上下太刀の構えをとります。慣れるまでは、小刀を持たずに大刀だけで構えます。ですから、片手上段の構えと言った方がいいかもしれません。小刀を持たない手は体側に下げます。

 正二刀の方でしたら右片手上段に、逆二刀の方でしたら左片手上段になります。(写真上)
 この時、両足は握りこぶし一つ半ぐらいの間隔をあけて、左右をそろえて立ちます。かかとも床に着けたままです。

刀の「重心」と自分の「正中線」(中心)


 ここで重要なポイントを、2カ所チェックします。
 
 1つは、構えた大刀の刃が相手に向いているかどうか。
 刃が天井を向いている方は、振った時の軌道が大きくなるので振り始めてから打突部位に到達するまでの時間がかかります。最短距離で振ることができないのです。お相手から見れば、"起こり"が丸わかりということになります。
 刃を相手に向ければ、その欠点が解消します。

 2つ目は、鏡の中の自分を見て、木刀の重心位置が頭の真上にきているかどうか。つまり、自分の正中線上に木刀の重心があることを確認します。(写真上)
 これが、ずれていては正しく振ることができません。二刀者の中には重心位置を無視して振っている方が多いのは事実です。しかし、それは竹刀だからできること。1㎏以上ある真剣であれば、刀の重心を無視して振ることはいろいろな意味で無理があります。(刀の「重心」についての考察はこちら

 次は、実際に木刀を振るわけですが、ここで重要になるのが「正中線」です。
 鏡に向かっているわけですから、自分の正中線はリアルタイムで確認できますね。
 正中線上にある木刀の重心を相手の打突部位のやや下、この場合は「面」の素振りをしますから、あごのあたりをめがけて押し出します。
 
 "押し出す"というのは、木刀の重心点の軌道が"弧"をえがくのではなく、振り終わりの位置まで重心点が"直線的"に移動するように振る、という意味です。

 この素振りの段階では、足は動かしません。前進後退しない。前進後退してしまうと反動が刀に伝わり、稽古すべき目的の部分が稽古できなくなってしまうからです。(足さばきをつかった打突は、次の段階の"打ち込み"で稽古します)

 この素振りは「正面」を打つ素振りですから、振り始めから振り終わるまで、木刀の重心点は正中線から外れることはありません。
 構えた時は、正中線からは離れた位置にあった大刀を握る拳(こぶし)も、振り下ろすと同時に胸の前あたりの正中線上にもっていきます。

 それで鏡の中の自分の「正面」を斬るわけです。

 ここで大切なのは、"剣先"を鏡の中の自分の「正面」にもっていこうとしないことです。
 剣先を打突部位に合わせようとすると、重心位置がブレます。太刀筋が不安定になるのです。
 では、どうするかと言えば、相手と「正対」していて、刀の重心点が終始正中線上にあり、振り下ろした時に拳が正中線上にあれば、当然のことながら剣先は正中線上にあります。つまり「正面」を斬ることができる。

 片手素振りをするときに意識するところは、「刀の重心点」と「拳の位置(柄頭)」の2点ということになります。
 

「太刀の道さかいてふりがたし」


 木刀の重心を知り、その重心点が直線的な軌道で移動するように振り、拳を中心にもってくる。結果的に、重心、拳、剣先、の3点が正中線にそろい、正中線を斬るわけです。

 この時、ある約束事を守らなければなりません。ある意味もっとも難しいことなんですけど……。
「太刀をはやく振らんとするによつて、太刀の道さかいて(さからって)ふりがたし。太刀はふりよき程に静かにふる心也」(『五輪書』水之巻より)
 刀は静かにゆっくり振るもの。早く振ろうとすれば、「太刀の道」に逆らって振ることになる、と武蔵は言っているのです。

 例えば、箸のような非常に軽いものの重心を感覚で割り出し、しかもその重心がブレずに早く振り続けることは、難しいと言っていいのではないでしょうか。
 ですから、軽い木刀で稽古することで、竹刀や刀が正しく容易に片手で振れるようになるということ。竹刀や刀も重量が違うだけで、重心位置はほぼ同じですから。

 このように、重心を意識して振ることを体に覚え込ませるのです。そうすることによって、意識しなくても刀の重心を遣った振り方ができるようになるわけです。
 このときに通った刀の軌道が、武蔵の言う「太刀の道」です。
 よって、この方法で素振りをすることが、「太刀の道」を見つけることになる、ということなのです。

ゆっくり静かに振る


 私は、二天一流武蔵会でこの片手素振りの仕方を習った時、ゆっくり静かに振るということは、立合いで求められるものとは、"真逆"のことを言っているようにしか思えませんでした。
 
 その時、その指導をしてくださった方が、私にこうおっしゃった。

 「ゆっくりゆっくりスローモーションのように振ってください。だまされたと思って、それを半年続けてください」

 私ね、素直ですからやりましたよ。毎日、数十本。
 
 そしたら2カ月続けたところで、あることが起こったのです。


※当ブログの投稿記事一覧はこちら


剣道二刀流 手の内の冴えが劇的に変化① O範士に頂いたアドバイス

元警視庁剣道主席師範 O範士の言葉で道が開ける


平成24年浦安市秋季市民剣道大会


 2012(平成24)年秋。浦安市秋季剣道市民大会に参加しました。
 この秋季大会は団体戦のみ。一昨年に初めて参加した時は惨澹(さんたん)たる試合内容でしたので(その試合の模様はこちら)、今回は何とかいい試合をしたいと思って参戦しました。(ちなみに、この前年の2011年は被災したためこの大会は中止になっております)

 試合は三人制の団体戦で、私のチームは平均年齢が45歳をこえるおやじチーム。私は先鋒です。一回戦のお相手は、20代前半の強豪校のOBチームでした。

 先鋒戦。私は打つ機会はあったのですが、キメきれずに旗が上がらず引き分け。
 続く中堅戦は、若手に二本とられて負け。
 最後の大将は、セオリー通り引き分けに持ち込まれて終了。チームの負けが決まりました。

 あっけない試合でした。
 この年は、春季大会では個人戦壮年の部で優勝してますし、お隣の市川市民大会でも個人戦で部門優勝しています。しかし、現役世代にはなかなか勝てない。
 ブランク30年から剣道を再開して3年がたち、日々の稽古も精一杯やっている。自分の二刀剣道はこのあたりで"頭打ち"なのかな、なんて思いました。

大会後の懇親会で


 大会が終了し、場所を移して所属道場の懇親会があり、出席しました。
 懇親会が始まってしばらくすると、所属道場の会長が、ある方を伴われて会場に入って来た。
 元警視庁剣道主席師範のOOT範士です。(注:「範士」とは現代剣道の最高位の称号です)
 OOT先生は市内在住で、浦安市民大会では大会顧問をされています。
 その方が、一道場の懇親会に突然現れたわけですから、驚いたのなんのって、急に緊張感が走りました。 

 席は、私の隣が二つ空いているだけ。まさかと思いましたが、お二人はそこへ。OOT先生は私の隣に座ったのです。

 OOT先生は今日の大会の講評をされ、皆さんからの質問にも丁寧にお答えになっている。
 その質問が途切れた時に、隣にいる私の方を向き、こうおっしゃった。

 「今日の試合で、二刀を執っていたのはキミか」

 「はい、そうです」

 「キミの片手打ちは、"手の内"が不十分だ。諸手で斬りかかってくる相手を片手で仕留める、そういう"手の内"を片手でやりなさい」

 私は内心、小躍りするほどにうれしかった。範士であるOOT先生が、手の内が不十分だとおっしゃっているということは、裏を返せばまだまだ伸びしろはあるということ。
 しかも稽古次第で、諸手で斬りかかる相手を片手で仕留められるようになると言っているわけですから、こんなに心強いことはありません。

「手の内」を稽古する方法とは


 OOT先生はこうもおっしゃっていました。
 「素振りをウォーミングアップ程度に考えている人が多いが、手の内の稽古は素振りでするんですよ。"正しい"素振りで」

 正しい素振りで稽古する……。OOT範士は一体どんな稽古の仕方をしていたのか……。
 気になって、後日、剣道誌のバックナンバーを調べると、OOT範士のインタビュー記事を見つけることができた。

 OOT範士は現役時代、あのしなやかで強い手の内を身に付けるために、素振りを1セット1,000本、それを一日に数セットやっていたとのこと。

 私は、まだまだ甘かったなと思いました。自分では稽古を相当やっているつもりになっていた。しかし、一流の方々は、それ相応の努力をされているんだと分かった。
 目の前に道がパァーッと開けたような気がしました。いえ、今目の前に一本の進むべき道が現れたという感じでしょうか。

 「まだまだやるべきことは、たくさんある」

 停滞していた私の二刀剣道が、「ゴロン」と音を立てて動き始めました。


2019年5月25日土曜日

平成24年市川市民剣道大会 三段以下45歳以上の部で優勝!

出身地の市民大会に出場


33年ぶりの参加


 2012(平成24)年10月14日、出身地であり、現在居住している浦安市の隣市である市川市の市民剣道大会に出場しました。
 この年は、リバ剣して3年目の年で、5月に開催された浦安市春季市民剣道大会では壮年の部で優勝している。(その様子はこちら
 その勢いを駆って、出場可能な大会は参加させていただこうと思い、まずは出身地で腕試しすることに。この大会への出場は中学3年生以来、33年ぶりになります。

三段以下45歳以上の部にエントリー


 私はこの時48歳。この年の8月に三段になったばかり。
 「三段以下45歳以上の部」というのは、リバ剣おやじとしては願ったりかなったりの部門。
 この部門へ出場するのは、私のようなリバ剣おやじか、ある程度の年齢になってから剣道を始められた方々です。ですから、試合経験や身体能力が突出した方がいない部門といえるのです。

 なので、四段に昇段すれば「三段以下45歳以上の部」にはもうエントリーできませんから、まずはこの部門で結果を出しておきたいという気持ちでした。

 この市川市民剣道大会の個人戦は約300名が参加し、9部門に分かれて試合が行われます。そして、それぞれの部門の優勝者が「市川市剣道選手権」として、トーナメント方式で総合優勝を争います。 

試合開始


 「三段以下45歳以上の部」の一、二回戦のお相手は同年代の剣道初心者の方でした。
 お相手の方々は、驚いたと思います。大会参加者300名中1人しかいない二刀者に、いきなり当たっちゃうんですからね。しかも対二刀は初めての体験でしょうから、戸惑っているうちに、二本とられてしまったっていう感じだったんじゃないでしょうか。
 私は難なく三回戦へと進むことができました。
 
 次のお相手は、前年まで毎年この部門で優勝していた方。同年代ですが、スピードとキレのある剣道をする方で油断はできません。
 しかし、試合が始まってみると、"待ち剣"で応じ技ねらい。ご自分なりに対二刀の作戦を練ってこられたのでしょう。
 ならばと、グイグイ間合いを詰めて、お相手が待ち切れずに打って出なければならないところまで攻め込んだ。
 我慢しきれなくなって打ちかかろうとする刹那を、「出ばな面」で仕留めました。

 準決勝と決勝は、いずれも高校で三段を取得後ブランク期間があり、最近リバ剣された方。どちらも剣道強豪校出身です。
 私は高校1年で初段のまま剣道から離れましたから、経歴では負けてます。苦笑(剣道継続を断念した理由はこちら
 しかし、気持ちでは負けまいと気合を入れ直して試合に臨みました。

 準決勝、決勝とも、延長戦になりましたが、辛くも勝って"部門別"で優勝しました。

市川市剣道選手権


 午後3時過ぎ。9部門の優勝者が出そろったところで、その9人による組み合わせの抽選が行われた。
 くじ引きの結果、私のお相手は「四、五段40歳未満の部」の優勝者に決まりました。
 この部門は、いわゆる現役世代。なんとういう、くじ運の悪さでしょうか。笑

 その「四、五段40歳未満の部」の優勝者は、25歳で強豪校(高校)の剣道部コーチ。年は若くても、剣道歴も試合経験も圧倒的に上です。
 「こんな人とやらなきゃいけないの」って思いました。汗
 
 「はじめ」の号令で、私が中段の構えから、上下太刀(二刀の代表的な構え、上段の構えの一種)に構えを変化させたその瞬間、のど元に衝撃を受けた。
 お相手の「突き」が決まっているんです。気づいた時には審判の旗は3本上がっていました。
 「これが現役世代の剣道か」
 試合開始早々、実力の違いを見せつけられた思いでしたが、なぜか心は落ち着いていました。

 「二本目」の号令がかかって、今度は私が攻める展開に。
 やはり、現役世代といえども対二刀には慣れていないようで、勝負に出てこない。一本先取しているので、当然、時間切れの一本勝ちも考えているはず。

 しかし、試合は始まったばかりで充分時間はある。私はあせることなく、打突の機会をとらえようと攻め続け、一本になりそうな打突がお相手に当たり始めた。すると、徐々にお相手が下がるようになってきたので、その下がり際に私の身体が反応してました。一歩踏み込んで豪快な「面」を打った。

 旗は3本上がり、これで一本ずつになって「勝負」に。
 すると、すぐに試合時間終了の合図があり、「やめ」の号令がかかる。

 延長戦です。開始線の位置に戻り、主審から「はじめ」の号令がかかった。
 その瞬間、お互いが大きく間合いを詰め、私は中段の構えから、思い切って大刀で「突き」を放った。

 審判の旗は3本上がっている。しかし、お相手の方に上がっているのです。
 私は、「突き」にいったときに、お相手が「面」にくるとみて小刀で自分の面を防御していましたが、「面」に当たっているように見えてしまったんですね。

 厳密には誤審ですけど、剣道ではよくあること。選手同士は自分の身体の感触がありますからわかっていますが、審判がそこまで判断することは難しい場面なのです。
 しかし、誤審を招くような状態をつくってしまったこと自体が、自分の稽古不足なのですから、致し方ありません。
 これを糧に稽古に励めばさらに自分が成長できるわけですから、負けにはなりましたけども、得たものは大きかったですね。
 現役世代の剣道を知る貴重な機会になりました。普段の稽古では得ることができない、試合ならではの成果です。

驚いた顔で


 「おいお前、どの部門で優勝したんだ」

 市川市剣道選手権の組み合わせの抽選のとき、上席にいた一人の先生が私に声をかけてきた。中学生時代、鬼のように怖かった剣道部の顧問、私の恩師です。

 驚いた顔をしてました。
 それはそうでしょうね。リバ剣直後にご挨拶した時は、ケガしない程度にやっとけよ、みたいな感じで、私の本気さに気づいていない様子でしたからね。(その様子はこちら
 
 この大会に出場したことで、恩師がリバ剣した私を自分の稽古相手として認めてくれるきっかけになったのです。

 またあの頃のように、恩師と剣道ができる。 
 それが一番うれしかったですね。

 

2019年5月21日火曜日

剣道 諸手刀法が"基本"で片手刀法は"応用"なのか

「一刀中段がしっかりできてから」という風潮


上段や二刀は剣道の「応用編」なのか


 2010(平成22)年に剣道を再開し、同時に二刀を執って稽古していると、左上段や二刀を執っていた若い剣士が、ある日、一刀中段に戻っていることを目にすることがある。

 理由を聞いてみると、高段の先生に「そういうことは、一刀中段がしっかりできてからやれ」と言われた、というのだ。

 現代剣道では、初心者に対し、右足前の「送り足」を教え、一刀諸手中段を教える。
 果たして、これが剣道の基本を教える唯一の方法なのでしょうか。

 実際問題として、初心者が道場や部活動で一人だけ違った方法で稽古をすることはできません。ですから、右足前の「送り足」で一刀諸手中段から稽古を始めることを否定するつもりはありません。

 しかし、どうも引っかかるのが「一刀中段がしっかりできてから」という考え方です。
 では、"一刀中段"がしっかりできる日はいつ来るのでしょうか。
 そして、"一刀中段"がしっかりできた状態とは、どういうものなのか。

 一刀中段が基本で、それが上達したものだけが左上段や二刀にすすむことができるような考え方に、結果的になっちゃってるんですね。言っているご本人はそういうことは意図していないのでしょうけど、残念ながらそうなってしまっている。

 これは、一刀中段を一生をかけて稽古されている方々に対して、大変失礼な話だと思います。
 「もうオレは、一刀中段はしっかりできるようになったから、明日からは左上段をやりまーす」なんて言う人がいたらどうします?
 「一刀中段の稽古をバカにしてるのかぁ」ってなりますよね。

片手刀法から諸手刀法へ


 歴史的にみて、世の東西を問わず、剣をとって戦う武術はすべて片手で剣を操作しています。
 書物や絵画、あるいはアニメや映画などを観ていて、日本以外で"両手"で剣を常に操作している場面を見ることはありません。フェンシングなどもそうですが、諸外国では剣を操作するのは"片手"です。

 では、日本だけが例外なのでしょうか。
 そうではありません。日本で刀を両手(諸手)で保持するようになったのは、室町中期以降と考えられています。
 これは、剣術諸流派の伝書や指南書、そして日本刀の拵(こしら)えを見れば明らかです。
 室町前期までの太刀の拵えは、柄(つか)が中ほどから峰側に大きく反り返っています。これを両手で持つことは不便です。片手で保持してなぎ斬りするようにつくられているわけです。ですから、太刀全体の反りも大きくなっているのが特徴です。

 子供の頃に剣道をやっていた方で、こういうことに気づいた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 日本史の教科書に掲載されている絵画を見て、鎌倉や平安時代の武人が腰に提げている刀が、刃部が下を向いているということを。

 私は、小学生の時にこれに気づき、ずっと不思議に思っていました。
 というのは、剣道の道場で、提げ刀あるいは帯刀する時は、刃部は上に向け、峰を下に向けると教えられているからです。

 日本史の教科書に掲載されている絵画が、現在の剣道で教えられている通りの"提げ方"になっているのは、室町以降のものからです。
 ですから、この時期を境に、刀法が変化し、それに伴って太刀の形状が変化し、必然的に帯刀の仕方が変わったということがわかります。

 室町中期を境に、刀法が片手保持から両手保持(諸手)に変化し、それによって、太刀のいわゆる「打刀拵え(うちがたなこしらえ)」が誕生し普及していったのです。
 

両手保持は高度な刀法


 こうした経緯を見てみると、室町後期から戦国期の剣術諸流派の流祖たちによって、刀法が根底から変更され、両手保持(諸手)刀法が生み出されたといって、間違いありません。
 "根底から"ということは、ただ単に「片手」から「諸手」へ持ち方を変えただけではありません。
 身の置き方、歩み方、太刀の握り方と振り方、間合いと拍子、その一切を新たな原理に立て直しているのです。(なぜ刀法が変更されることになったかは、こちら

刀身一如の大原則


 こうして、戦国期に確立された諸手刀法。
 その特徴は「刀身一如」が大原則になっていることです。これが、現代の「剣道」に連綿と受け継がれてきているのです。

 では、「刀身一如」とは何でしょうか。これは、身体の移動と刀の動きを一致させることです。刀を諸手で持ち、身体もろとも打ちかかる刀法。まさに捨て身の刀法。一撃必殺の極意なのです。

 それ以前の、片手刀法といえば、身体は相手の太刀が届かない安全なところに置いたまま、片手を伸ばして敵を斬ろうとするわけですから、"刀法"といえるものではありません。偶然や、身体能力にたのんで、戦うわけです。
 室町以前の合戦は、馬上攻撃が主流ですから、諸手で太刀を持つことはできませんし、なぎ斬りする格好になるわけです。

 人が、偶然や身体能力の差で、生き死にする。そんなむごたらしい現実から、勝つ必然を極めて剣理を得たのが、刀身一如の諸手刀法であり戦国流祖たちなのです。

宮本武蔵の偉業

「先づ片手にて太刀をふりならはせん為に、二刀として、太刀を片手にて振覚ゆる道也」(『五輪書』より)
武蔵は、二刀とは片手刀法を稽古するためのものだと言っているのです。太刀は、一刀を片手でも両手でも振り、二刀を両手でも振る。そのために、普段から二刀を執って稽古していれば、他の二つは可能であるというのです。

 武蔵の生まれた戦国末期は、諸手刀法が全盛となっていた時代です。
 そんな時代に、やっぱり太刀は片手で振るものだ、と言っているのです。
 しかし、ここで私たち現代人が、注意深く認識しておかなければならないのは、武蔵は単なる片手刀法への回帰をうたったのではないということです。

 武蔵の二刀は、刀身一如の大原則を保持したまま、戦国流祖たちが到達した革新を極めて厳密に受け継いでいるだけでなく、一層鋭く自由なものに研ぎあげるための手段だと言ってもよいのです。

目指す剣理は同じ


 そういった意味で、室町後期以降を起源とする諸手刀法と二天一流の片手刀法は、極めんとする剣理は同じだといえるのです。
 違うのは、そのアプローチの仕方。諸手刀法なのか片手刀法なのか、一刀なのか二刀なのかだけなのです。

 ですから、一刀がしっかりできるまで、諸手左上段も二刀もやるべきでないとういう考え方は、「武道」である剣道を、一刀中段だけの"スポーツ"にしかねない、根拠のない発想といえるのではないでしょうか。

限りある寿命の中で


 人間だれしも永遠の命を授かっている人はいません。寿命には限りがあるのです。私は一昨年(2017年)に急性リンパ性白血病と診断され、身に染みてそれを感じています。

 歴史上に実在した戦国流祖たちが、まさに命がけでそれぞれ剣理への道程を示してくれたわけです。
 私たちが、どのアプローチの仕方で剣理の習得を目指すか。中段なのか上段なのか、諸手なのか片手なのか、一刀なのか二刀なのか。

 それをたった一つの方法に、他人から限定されたり、他人に対して強制したりすることは、愚かなことだと思うんですけど……。

 人生には限りがありますからね。自らが納得できる方法で「理」を追求したいものです。
 

令和元年 浦安市春季市民剣道大会 準優勝!

決勝で延長の末敗れる

準決勝

決勝

例年の"部門別"なし


 令和元年5月19日、浦安市春季市民剣道大会に出場しました。

 この春季大会は個人戦のみで、例年では40歳未満の青年の部と、40歳以上の壮年の部に分かれて行なわれておりました。そして、それぞれの優勝者が総合の決勝で対戦し、総合優勝を決定する大会です。

 しかし、当日会場入りしてビックリ。
 今回は"部門別"に分かれることなく、予選リーグを行ない、1位通過した者が決勝トーナメントに進出するという方式になっておりました。

 私はリバ剣して以来、過去3回、この大会の壮年の部で優勝しております。
 そして、その3回とも、総合の決勝で青年の部の優勝者に負けております。

 今年も、まずは部門別の優勝を目指しておりましたので、気持ちを切り替えて、予選リーグ通過に集中することに。

 予選リーグは3~4名で組まれており、私の組は3名。お相手二人は私よりも若い方でしたが、いずれも数年前に立会った経験がある方々。
 ということは、お相手も私の手の内を知っているということ。油断は禁物です。

予選リーグ


 お一人目は数年前に対戦しているのですが、どのような剣道をされる方なのか思い出そうとしてるうちに試合開始。
 蹲踞の姿勢から立ち上がるとすぐに、お相手の“起こり”が見えたのですかさず「出小手」。初太刀で一本先取。
 その後は、両者有効打突がないまま試合時間終了となり、一本勝ち。

 お二人目は7年前の三段審査の時のお相手の方でした。(その時の様子はこちら
 当時のこの方の剣道スタイルはよく覚えていましたが、あれから7年たっていますのでどう変化しているか。
 「はじめ」の号令で立ち上がり、すぐにこう思った。
 「稽古しているな」
 7年前とは違い、機をとらえて打突してくる。対二刀も研究していると見えて隙がない。
 しかし、時間がたつにつれ、攻めと打突が雑になってきた。
 私は歩み足で攻め込んでコート際まで追い詰め、お相手が打って出るしかない状況を作って、「出ばな面」で仕留めた。この試合も時間がきて一本勝ち。

 私は、2勝0敗で予選リーグを1位通過し、決勝トーナメントへ。

決勝トーナメント


 一回戦は、今までに数回対戦している方。最も対戦回数が多いお相手です。戦績は私が全勝していますが、毎回かなりの接戦で辛くも勝利している感じ。私の二刀を熟知しているお相手です。
 「研究されてるな」
 立合い開始とともに、すぐにそう思いました。
 お互い出す技すべて決まらず延長戦に。
 お相手を崩すことができず、私が苦しまぎれに打って出たはなを、お相手がとらえて打ってきた。
 「相面」です。
 3人の審判の旗は、赤2本、白1本に割れた。
 私が勝っていました。

 次は準決勝。初めて対戦する方でした。
 構え方から、どこを狙っているか察しがついてしまう場合があります。
 この方は、明らかに私の大刀側の小手を狙っているのです。
 私は正二刀(右手に大刀、左手に小刀を持つ構え)ですから、一刀中段に構えるお相手は、私の大刀側の小手を打つ場合は手首を大きく返して切っ先を左に回さなければなりません。
 私は、そのお相手の手首を返すはなをとらえて、「面」にいって一本。
 その後も、足で攻め込んで、お相手が攻め返そうとする刹那を「出ばな面」で仕留めて一本。これで二本勝ち。

決勝戦


 私の準決勝の試合が終わると、隣の試合会場でもう一組の準決勝の対戦が続いていた。
 この勝者が私と決勝で対戦するお相手になる。

 片方は、30代で剣道強豪校出身の方。もう一方は、20代で剣道強豪校出身で中学の剣道部顧問をされている方。

 「こんなすごい人たちとやるの」って思いました。笑
 
 昨年までは、壮年の部で優勝してから、総合の決勝で、青年の部の優勝者と対戦しましたので。とりあえず部門別ですが「優勝」は獲得していますので、気分的には楽でしたが、今回はこれに勝たなければ「優勝」はありません。

 決勝のお相手になったのは、20代の剣道部顧問の方でした。

 試合が始まると、対二刀の経験がまったくないことがすぐに分かった。
 しかし、お相手は年齢は若いが百戦錬磨の試合巧者。まったくといっていいほど、打つ機会が作れない。作れないというより機会はあっても自分が打つ体勢になっていない。微妙に構えが崩れているんですね。
 緊張や焦りでそうなっているのか、お相手の“攻め”でそうなっているのか分かりませんが、機をとらえることができずに時間だけが過ぎていきました。

 試合が延長に入り、お相手も上下太刀(二刀の代表的な構え、上段の構えの一種)を崩すのは難しいと思ってか、戦い方を変えてきた。つばぜり合いに持ち込もうとしている。
 こういう展開になれば、相手が狙っているのは“引き技”、と思った瞬間です。
 つばぜり合いから一瞬の隙をついて体当たりされ、わずかにバランスを崩したところを「引き面」を打たれた。

 旗は3本ともあがってました。

 すべてが、後手に回った試合でした。完敗です。

 リバ剣当初に決めた目標。市民大会を3年以内に制すこと。(その経緯はこちら
 期限はとっくに過ぎて、もう9年半。今回も"総合優勝"まであとわずかに及ばず。

 まだまだ修行しなさいってことですね。笑

 リバ剣おやじの挑戦は続きます!


追記
 冒頭の動画2本のうち、決勝戦の動画はビデオカメラのバッテリー切れで、途中で撮影が終わっております。申し訳ありません。
 最後まで収録されているものが見つかり次第、差し替えるつもりでおりますので、よろしくお願い致します。


2019年5月15日水曜日

剣道昇段審査③ 二刀で三段を受審

市民大会優勝で二刀を執っていく自信になった


改めて所属道場の皆さんに感謝


 前回の投稿で、2012(平成24)年の浦安市春季市民剣道大会の壮年の部で、リバ剣後初優勝した日のことを書きました。(その様子はこちら

 "アンチ二刀"だった市剣連会長が私の試合に感動して興奮しながらスピーチしたり、大会後、たくさんの剣士の皆さんから声をかけて頂きました。本当にありがたいことです。
 リバ剣してよかったと、心から思いました。

 小学2年で剣道を始め、5年生の頃には市の大会で優勝するようになりました。それから中学3年までは市内大会で負けたことは1度もありません。当時は子供の人口が多かったので、試合は全部学年別。言わば"部門別"です。
 今回の私も「壮年の部」という部門別の優勝ということで、これでやっとあの頃のレベルに戻すことができたんじゃないかなと思いました。
 しかし、目標はあくまでも総合優勝。まだまだ始まったばかりです。

 浦安の所属道場の先生方には、感謝の気持ちでいっぱいです。
 リバ剣して初段だった私がいきなり二刀で稽古し始めることができたのも、皆さんの理解があったから。これも奇跡的なことだったと思います。
 剣道界にはいまだに二刀に対する誤解や偏見は残っていますので、ある程度はそれを覚悟していました。しかし、この道場でそういったことで嫌な思いをしたことは一度もありません。本当にこの道場で剣道を再開できたこを幸運だったと思っています。(二刀に対する偏見とは、こちら

私との立合いを望んで


 市民大会の翌週あたりから浦安の所属道場にも、私との立会を望んで出稽古にお見えになる方が現れ始めた。
 壮年の部で優勝した二刀者とやらと稽古してみたい、と思ったんでしょうね。
 もし私が高段者だったら、そうは思ってもなかなか出稽古に来ずらいと思います。しかし、それがリバ剣おやじでまだ二段と聞いて、気軽に出稽古に来て頂いたんではないでしょうか。

 これは、私にとってはありがたいことで、自分の道場にいながら、普段お会いすることができない方々と交剣できるんですから、稽古の質が変わっていき、大変勉強になりました。
 
 最初はご近所の道場の方がお見えになることが多かったのですが、次第に遠方からもお見えになったり、驚くような経歴の方もお見えになるようになるのですが……。

 困ったことに、お見えになる方は皆、100%の確率で私よりも高段である、ということです。笑

 私は二段でしたからね、当然のことなんですけど。立合いを受けて立つほうが段が下なので、気持ちの上でのやりずらさは否めません。

そんなことを考えつつ、市民大会から3カ月後に、次の昇段審査の日がやって来ました。

三段審査


審査前に現れる人


 この2年前に二段を受審したときは、二刀で受審することに随分と迷いましたが(その時の様子はこちら)、今回の三段審査はまったく迷うことなく二刀で受審しました。

 しかし、段審査の日が近づいてくると必ずこう言う人が現れる。

 「二刀で段審査を受けても受からないよ」

 今回もいっぱい現れました。笑
 二段も二刀で受審して合格していますと伝えても、「三段はそうはいかないよ」って言うんです。二段を二刀で受審する方がよっぽど難しいと思うんですけどね。

 でもまあ、この時はこういう人の声にも惑わされることなく、審査当日を迎えることができました。

 2012(平成24)年8月12日。
 初段から三段の審査会場は、前回と同じ市川市の総合体育館。(二段受審の時の様子はこちら
 朝8時半に会場入りして着替えを済ませ、受付をしてウォーミングアップに入る。
 ほどなく開会式の時間となって、それぞれの受審段位の列に並んだ。

 三段を受審可能な年齢は高校1年生以上。ですから、受審者のほとんどが高校生です。
 私のような中年おじさんは非常に少ない。最後尾に並ぶ40歳以上の方は、私を含め3人でした。

審査開始 一人目


 審査は4人一組で受審します。自分以外の2人と1回ずつ立ち合いますので、審査を2回受けることになります。ですが、私たちの組は端数のこの3人。この日の受審者の中の"最年長トリオ"です。笑
 体育館のアリーナは3会場に分かれていて、私たちの審査が始まるころには他の2会場はすでに審査を終えていました。つまり、会場にいる全員が私たち3人の立会いを見るというシチュエーションです。

 一人目のお相手は男性で外国の方。
 「はじめ」の号令と共にグイグイ前に出てきた。間合いの攻防がまったくない。とにかく近間(ちかま)に入って打とうとしているのです。

 二段の審査までは基本ができていればいいんですけど、三段の審査は理合(りあい)がなければなりません。打突の機会をとらえている必要があるのです。

 しかし、こんなに近間にどんどん入って理合なしで打ってきたら、双方が不合格になる可能性がある。
 「これは、このお相手が打つ前にすべて仕留めてしまうしかない」
 瞬時にそう思って、お相手が中段に構えたまま近間に入ろうとするその刹那を、小刀でお相手の竹刀を斬るのと同時に大刀で面を打った。
 二天一流の「二か所同時斬り」です。

 5人の審査員が一斉に「うぉーっ!」と歓声を上げたのが聞こえました。審査員は、歓声を上げてはいけないんです。でも、上げちゃってる。

 お相手は、なおも同じ方法で近間に入ろうとしますので、すべて「二か所同時斬り」の面で仕留めた。手応えは充分すぎるほどありました。

二人目


 二人目のお相手は女性でした。
 その方は審査の順番を待っている時に、私の竹刀のが2本あり、そのうちの1本が小刀であるのに気づいて話かけてきた。
 「二刀流なんですか」
 その顔が、もう不安そう。

 そりゃそうですよね。審査に来て普段やったことのない二刀者とあたるなんて、「聞いてないよ」って感じだと思います。
 聞けば、30代の頃にお子さんと一緒に初心者から剣道を始めたそう。あまりに心細そうな顔をしていたので、こう伝えた。

 「二本の竹刀に惑わされないでください。ご自分の構えを絶対に崩さないように。私の面だけをねらって、打ち切ってください」

 二人目の立会いが始まりました。
 お相手はアドバイス通りに、堂々とした構え。
 でも、困惑したのは私の方で、あまりに素晴らしい構えで機が作れないんですよ。汗
 正直、あせりました。こちらの攻めに対して一切反応しないのです。
 余計なアドバイスをしちゃったなと後悔しました。苦笑
 
 反応しないなら打ってきたところを合わせれば、相面で仕留められるだろうと高をくくった、次の瞬間です。

 スパァーン!

 打たれたのは私です。バックリと面を打たれました。
 相手の“出ばな”を待つ。そのこと自体が「受け身」になっているんですね。完璧に打たれました。

 そのあと、私も何本かいい打突がありましたけど、審査員の目にはどう映ったんでしょうかねぇ。とにかく、面を打たれたことがショックでした。

 結果は、三段合格。
 お相手の二人も合格してました。

 閉会式がおわって観覧席に引き揚げようとすると、市川市剣道連盟会長のTNK先生が声をかけてくださった。実は二段のときと同様に、5人の審査員のうちの一人がTNK先生だったのです。(TNK先生とはこちらをご覧ください)

 「おめでとう。満票で合格してたよ」

 ホッとしました。
 

2019年5月13日月曜日

平成24年浦安市春季市民剣道大会 壮年の部で優勝!

リバ剣して2年半で優勝


前年は震災で1年間試合なし


 この前年(2011年)は東日本大震災で地元浦安市は液状化現象に。インフラの復旧に約1年がかかり、我々市民剣士が出場できる大会の開催がなくなった。
 それを好機ととらえて、基本の稽古を徹底してやり直すことを決めた。80歳まで上達し続けられる剣道の「土台」を作るためにです。(その稽古については、前回の投稿をご覧ください)

 この時の1年間は、試合のことを考えずに黙々と基本稽古ができた。リバ剣と同時に二刀を執るという、ある意味無謀な挑戦ですので気負いもありましたが、地に足がついた気がします。
 
 気づけばあっという間に1年がたち、震災後の初めての市民大会を迎えた。

だれも予想してなかった優勝


 当の本人も予想してません。笑
 前回の秋季大会その前の春季大会も“試合になっていない試合”をやってしまったので、今回は、そういう恥ずかしい試合はしたくないという一心でした。

 当日の朝はゆっくり起床。午前中は子供たちの試合なので、一般の部は午後から。春季大会は、団体戦がなく個人戦のみ。
 前回の大会までは、息子の試合も観戦してましたが、この時は家でひとり稽古してから昼ごろ会場入りすることにした。

 時計を見ると時間はたっぷりある。
 「部屋の掃除でもするか」
 なにも試合の日の朝にしなくてもよいものを、思い立って始めてしまった。

 掃除を終えると、すがすがしい気持ちになって、落ち着くことができた。
 その後、家で「打ち込み稽古」をするつもりでしたが、急に「二刀の形稽古」をしたくなった。「打ち込み稽古」でウォーミングアップするよりも、「二刀の形稽古」で理合(りあい)を確かめたくなったのです。

 そして、ひとり形稽古をみっちりやって、家を出た。

 会場入りしても、まったく緊張しませんでした。
 リバ剣して2年半、「リバ剣したばかりなので」なんて、もう言い訳できませんからね。
 稽古でやってきたことを、そのまま試合でやるだけです。

 私は「壮年の部(40歳以上)」にエントリーしました。
 基本に忠実に、機をとらえたら躊躇しない、打ったら打ち切る、1回戦から準々決勝までは淡々と勝ち進みました。

準決勝の相手はあの"お弟子さん"


 準決勝が行われる試合場に行くと、お相手はもう待っていました。
 高名な二刀者で範士のお弟子さんです。自慢の師匠がいるのに、私に片手刀法の基本を聞きに来たあの人です。(その様子はこちら
 そして、前回の秋季大会では団体戦で同じチームだったにもかかわらず、ネット上で私のことを批判していた人です。
 今、目の前に自信たっぷりで立っています。

 その方は逆二刀、私は正二刀です。相二刀の試合なんて私も初めてですし、会場にいる誰もが初めて見たと思います。

 試合が始まってみると、お互い防御の固い二刀同士ですから、なかなか相手を崩せない。しかも、お相手はやたらと手数を出してくる。
 あせってそうしているのか、勝つ自信があってそうしているのか分かりませんが、いずれにしても打突に理合(りあい)がないんです。

 私はそれに気づいた瞬間スッと冷静になり、「そんなに打ちたいんなら、面を打たせてやろう」と思い、小刀での攻めを緩めて前に出た。
 お相手はその“誘い”にのって、今だとばかりに面を打ってきたのです。

 もうその時、私の身体は自然に動いていました。

 小刀でお相手の面打ちを受けると同時に大刀で胴を打っていた。

 審判の旗は瞬時に3本上がり、これで一本。場内から「ウォーッ!」という歓声。
 その後、すぐに試合時間の終了の合図があり、一本勝ち。

 実はこの技、二刀の「面返し胴」といって、数時間前に家で形稽古をした時に、繰り返し稽古した技なのです。
 試合に勝ったことよりも、理合を体現した一本を取ることができたことの方がうれしかったですね。
 この時の打突の感触は今でも覚えています。

 お相手の“お弟子さん”は相当ショックだったんでしょうね。この大会を最後に、個人戦には出場しなくなってしまいました。かわいそうなことになってしまいましたが、勝負ですから致し方ありません。

 決勝戦は、市内のライバル道場の闘志むき出しの方とあたりましたが、なんとか勝つことができ、「壮年の部」で優勝しました。

総合の決勝


 部門別の優勝者が決まると、続いて総合の決勝です。

 私のお相手は「青年の部(40歳未満)」の優勝者で、24歳の方。千葉県剣道選手権大会でベスト16に入っている方です。

 ついに、ブランク30年のリバ剣おやじが、若手現役選手とガチンコ対決です。
 望んではいましたけど、本当にこんなことになっちゃったって感じです。
 しかし、不思議と緊張は一切しませんでした。

 試合は、一進一退の攻防がつづきました。私は、何度か機をとらえるチャンスがあったにもかかわらず、躊躇して逃してしまっていた。総合の決勝という舞台の雰囲気にのまれているんですね。これは、明らかに経験不足。リバ剣剣士の弱点です。

 両者とも有効打突がなく、制限時間がきて延長戦に。ここからは、一本先取した方が勝ち。

 やはり現役選手は試合巧者ですね。上下太刀(二刀の代表的な構え、上段の構えの一種)をどう攻略すればいいか分からなかったと見えて、引き技で一本を取ろうとしてきてている。
 私はそこまで解っていて警戒はしていたんですが、つばぜり合いからの引き際に私がすぐに大刀を上段に構えようとする癖を読み取っていたんですね。
 体当たりから「引き胴」を打たれた。やや元打ちでしたが、試合時間が長引くと、こういう打突でも旗が上がってしまうんです。
 私の負けでした。

 試合後は、たくさんの方が、私の壮年の部の優勝と総合の決勝の健闘を喜んでくれました。
 しかし、リバ剣直後に私が決めた目標はあくまでも総合優勝。(その経緯はこちら
 それが、できなかったことが悔しくてしょうがなかった。3年以内と期限を決めていましたから。

 まあ、現実は甘くないということですね。4年目以降も“総合優勝”を目標に挑戦し続けることを決めた。

「アンチ二刀」だった市剣連の会長


 表彰式の後、閉会式に移って、私の試合が意外な人の心を揺さぶったことを知った。
 浦安市剣道連盟会長(平成24年当時)のYSWR先生だ。

 この方は、「二刀流は邪道だ」と公言してはばからなかった方。

 それがなんと閉会式の会長のスピーチで、こんなに素晴らしい二刀の試合を見たのは初めてでだ、という内容の話をしたのです。しかも興奮気味に。笑
 そして、観戦していた小中学生に向けて、今日見た二刀の試合を忘れないようにとまで。

 正しい二刀を正しい剣の理合で体現すれば、誤解している人も変えることができるんだなぁと、他人事のように感心してしまいました。

 市剣連にはあと2人「アンチ二刀」がいるんですが、この方たちのことも、後のお楽しみに。

 閉会式が終了し、散会となった。
 するとすぐに、あの“お弟子さん”が私のところにやってきた。
 「おめでとう」
 笑顔で声をかけてくれた。

 私、その時つい聞いちゃったんです。「会長は、最初にどんな二刀を見て"アンチ"になったんでしょうかね」って。

 そしたら、「オレのだよ」ですって。汗

 気まずい空気が流れたのは、言うまでもありません。
 

2019年5月11日土曜日

リバ剣 日常の稽古⑦ 一年間の基本の強化

震災の影響で道場使えず


基本の基本を稽古


 前々回の投稿で、「一人稽古の徹底強化」について書きました。

 その2011(平成23)年は、日常の生活で「ナンバ歩き」を徹底し、“手製の打ち込み台”で片手で打って打って打ちまくり、積極的に出稽古にも行くようになった。
 この年は、震災の影響で私が出場できる近隣の剣道大会はしばらくない。
 徹底して「基本の基本」を磨くことにした。

 ひとり稽古の徹底強化を始めて半年たった2011(平成23)年秋。私の剣道にちょっと変化が表れはじめました。

"腕始動" "脚始動"の剣道を、「腰始動」の剣道に


 元オリンピック選手でマラソンランナーの高橋尚子さんがパーソナリティを務めるラジオ番組でこうおっしゃっていたのを聴いたことがある。

 「マラソンのコツは、小さな筋肉をなるべく使わず、大きな筋肉を使って走ること。ふくらはぎの筋肉に頼らず、でん部から太ももの筋肉を使うこと」

 「ふくらはぎの筋肉に頼らない」、この話を聞いて、剣道にも当てはまることだなと思った。

 2010(平成22)年1月にリバ剣した初日の稽古のときのこと。(その様子はこちら
 こんな足の遣い方ではアキレス腱が切れても当然だな、と思った。稽古終了後に、ふくらはぎを酷使したことにより力が入らず、しばらくまともに歩けなかったのです。実際、剣道でアキレス腱を断裂する人は非常に多い。

 その後、二天一流武蔵会で「ナンバ歩き」の原理を教わった。(その様子はこちら
 脚力に頼らず"腰で歩く"方法だ。早速実践して1年半が過ぎたころ、地元道場でこう言われるようになってきた。
 「技の起こりが分かりずらい」
 「片手で打ってるのに、なんでそんなに早く打てるのか」
 「一時間ぶっ続けで稽古しているが疲れないのか」

 これらは、通常の歩く動作を「ナンバ歩き」という動作に根底から変更したことによって得られた"効果"のほんの一部です。
 「ナンバ」歩きは、"腰始動"の剣道の必須の稽古法なのです。

 技の起こりが分かりずらい、ということは、「溜め」がないということ。腰を入れずに、脚力だけで蹴りだそうとすると、どんな人でも必ず一瞬「溜める」。元立ちの高段者の先生方は、そこを見逃さないわけです。自分は"起こり"など作っていないつもりでも、わずかな「溜め」が「拍子」となって表れるのです。そこをとらえられてしまう。

 片手打ちなのに早く打てるのはなぜか。諸手上段のように、諸手で構えて片手で打つならまだしも、二刀者は片手で構えて片手で打つ。腕力だけで打ったら竹刀といえども数回振ったら疲れてしまいます。1㎏以上ある本身であればなおさらですよね。
 これも"腰始動"であれば難なく振れる。腰始動にすると竹刀自体の重さを引き出して、その重さを利用して振れるようになるわけです。

 この時私は47歳。稽古は、一時間ぶっ通しでやってました。休憩なし。一人目の地稽古が終わって、次の方のところに並びながら5分休憩なんてない。時間がもったいないですからね。早く30年のブランクを埋めなければならないって、そればかり考えてましたから。空いている先生に次々に稽古をお願いする。
 もちろん私はかかりて手ですから、受けて、流して、応じてなんていう稽古はしません。精一杯、自分からかかっていきます。
 これも"腰始動"ができるようになってきて、不必要な筋力を使う動作をしなくなった結果、疲労しにくくなったということ。足のふくらはぎなどの小さな筋肉を酷使しないで、それ以上の運動能力を発揮することができる。"腰始動"なら脚が疲れて前に出ないなんてことにはならないわけです。
 ふくらはぎを酷使する剣道ができるのは、20代までじゃないでしょうか。そのままの剣道を壮年になってもやっていると、技術や体力の限界を感じて剣道がつまらなくなってしまう。ケガの原因にもなりますね。ふくらはぎの酷使は本当に体力を奪います。

竹刀が片手で振れると楽しい


 正しい片手刀法で「打って、打って、打ちまくる」を信条に、自宅で毎日一時間半以上、打ち込み稽古をするようになり、ぎこちなかった片手打ちが楽しくなってきた。

 自宅に打ち込み台を置いたのは大正解。家族は迷惑がってますけど関係ありません。笑
 こちらは夢の実現がかかっているんですからね。多少は我慢してもらわないと。(なんちゃって)
 以前は肩に力が入り、竹刀を「グー」でわしづかみにしていた。そうすると、打突が弱くなる。竹刀を自在に片手で扱うなんてことができるようになるのだろうか、って思ってた。
 しかしこれが、だんだん肩の力が抜けてきて、竹刀も指二本で握って振れるようになってくる。指二本というのは、もちろん小指と薬指。『五輪書』にもありますね。
 中指は添えるだけで、人差し指と親指は握りません。すべての打突部位が正確に打てるようになってくると、時間のたつのも忘れて打ち込み台に向かっています。
 

出稽古で"ガチ稽古" 


 出稽古の利点の一つに、初対面のお相手と稽古できるということがあります。
 お互いの手の内や力量が分からないところから、稽古が始まる。互角稽古であれば、まさに"ガチ稽古"になります。

 浦安は震災の影響で稽古場所が確保できないため、お隣の市川市を中心に出稽古に行かせていただくようになると、いろいろな世代の初対面の方々と稽古する機会ができた。
 すると逆に、リバ剣おやじが二刀をやっているという物珍しさも手伝ってか、私が市川での"ホーム"にしている市川市剣道連盟東部支部に、出稽古に来る方が増えてきたのです。
 
 これは、毎回本当にいい稽古をさせて頂きました。
 地元では災害復旧まで1年間、思うように稽古できなくなりなしたが、新たな交流が生まれるきっかけになりました。

 ある出稽古先で、高段者の先生に稽古のお礼のご挨拶をした際、「二刀はどこで習っているのか」と聞かれました。「二天一流武蔵会です」と答えると、「きれいな二刀をする人はみんな武蔵会だね」と言われたのです。

 私は、片手刀法の基本稽古を毎日淡々と続けていただけ。
 「今はこの方向でいいんだな」
 そう思って、愚直に稽古を続けた。
 
 この半年後に、だれも予想だにしないことが起こることも知らずに。


2019年5月9日木曜日

白血病 夫婦の絆

大病をしなければ気づかなかったこと


感謝の気持ち


 久しぶりの「白血病」に関する投稿になります。
 2017(平成29)年4月。急性リンパ性白血病と診断され、8カ月間の抗がん剤治療を経験した。(その様子はこちら
 現在(2019年5月)は、1年ほど前に復職も果たし、大好きな剣道も再開しています。
 
 今回は、大病をする前と後の、家庭内の"ある変化"について、書きたいと思います。

 罹患して初めて自分が幸せであったことに気づきました。
 入院中は、家族、会社、友人、病院のスタッフに対する感謝の気持ちで、毎日涙があふれた。(その気持ちを綴った投稿はこちら
 
 それまでの自分は、なんてわがままだったんだろうと。

笑顔のない家庭


 結婚した当初はよかったんですよ。私も妻も笑顔があったと思います。
 しかし子供ができ、子育ての方針に関して些細な食い違いが出てくると、険悪なムードになってきた。

 子供が小学生になったころには、必要以外は妻と会話しなくなっていましたね。
 今から考えれば、一番かわいそうだったのは子供です。両親どちらとも仲良く遊びたいのにその二人が仲が悪いんですから。まさに板挟み。どうしたらいいか分からなかったと思います。
 その後、3人とも同じ道場で剣道をやることになっても、妻とは稽古したことありませんでした。苦笑

 息子が中学生になっても、私と妻の口論は絶えません。お互い強情ですからね。どちらかが引くなんてことがない。
 当然、家庭内に笑顔なんてありません。

 そんな中でも、救いは息子が素直な子に育ってくれたこと。それだけで満足だったので、妻との関係改善なんて望んでいませんでした。
 そして、息子が高校生活に慣れたころ、私の体調がすぐれなくなってきたのです。
 

入院


 急性リンパ性白血病でした。フィラデルフィア染色体異常の。
 抗がん剤治療が始まり無菌室に入った翌日に妻を呼んで、私のことで負担をかけてしまうことを詫び、家のこと息子のことを託した。

 それまで、必要以外ほとんど口もきいてなかったんですからね。見捨てられても仕方がないと思ってました。
 ところがね、翌日から毎日、面会に来たんですよ。

 その頃の妻といえば、フルタイムの仕事を持ち、朝は剣道の強豪校へ通う息子が朝練のため4時に起床して弁当を作り、息子を送り出してから出勤。
 夜は道場の小学生の剣道の指導。休日は、息子の試合の帯同。月に数日は実家に帰って義母の介護。
 そんな殺人的なスケジュールをこなす中、ほぼ毎日面会に来てくれたのです。

妻の「笑顔」


 どこにそんなエネルギーがあるんだろと思うぐらい、すべてを手を抜かずに一日をやり終えて病院に来る。その表情は不安でいっぱいでしたね。私もそうですが、この先、どうなることかと思っていたんではないでしょうか。
 私には直接言ってきませんでしたが、私の母には、なんとか病気が治ってほしいと言っていたそうです。

 治療が始まって4カ月が過ぎたころ、ふとあることに気が付いた。
 
 面会のときに病室に入ってくる妻の表情が、「笑顔」になっていた。
 その笑顔が、"あの頃の"笑顔と同じだったんです。

出会いはこの病院


 実は、私はこの28年前、貧血で2週間ほどこの病院の同じ病棟に入院していたことがあるのです。当時25歳。
 その時ここに、看護師1年目で勤務していたのが、のちに妻になるM子なのです。当時22歳。(現在は、他の医療機関で働ています)

 「笑顔」で私の病室に入ってきた一人の看護師さん。
 第一印象は、「ああ、もう探さなくていいんだ」って思いました。ひと目見た時に、そう思ったのです。

 というのは、私は子供の頃から、結婚は「縁」だと思ってた。だから、現在の「婚活」のように相手にたくさんの条件をつけて、それに合った人の中から選ぼうとするような考えはなかった。
 例えば、小中学生の頃は、このクラスの中に自分と「縁」のある人がいるのかいないのか。大学、社会人となってからも今までにあった人の中に、「縁」のある人はいるのかいないのか。まだ会っていないのなら、いつ出会うのかぐらいは誰か教えてくれないものかと、ずっと思ってました。笑
 結婚願望があったわけではないのです。まだ25歳でしたから。ただ、自分と「縁」ある人が、どんな女性なのか知りたかったのです。笑

 そしたら、この病院に入院したら目の前に突然現れちゃった。
 「病気になって入院しなきゃ、出会えなかったじゃないか」って思った。笑
 M子もその時「縁」を感じたそうで、その7年後に結婚した。

 結婚して20年。すっかり仲も悪くなって妻の「笑顔」なんてしばらく見てませんでした。
 それが、私が白血病になって同じ病院に入院し、あの頃はナース服で病室に入ってきたM子が、今は妻になって私服で病室に入ってくる。
 目元のシワは増えちゃいましたけど、「笑顔」が同じだった。

 「この笑顔をなくしていたのは、オレのせいだ」

 そう思いました。ようやく、自分のわがままに気づいたのです。

人生を一緒に


 妻が「笑顔」で面会に来るようになって、病室で二人でたくさん話しました。今まで会話らしい会話もしてなかったぶん、たくさん。

 話の内容は一人息子のことばかり。息子が成長する喜びを、ようやく二人で分かち合えるようになったんです。

 この病気になったことで、ようやく家族が一つになれたような気がします。
 時間はかかりましたが、妻と人生を一緒にやっていく実感が初めてわいた。妻もそうだったと思います。

 大病したこと、そして妻に、改めて感謝しました。


 

2019年5月8日水曜日

リバ剣 日常の稽古⑥ 心にしみた師の言葉

被災して自分の剣道を見直す機会になった


東北の被災地へ竹刀100本の支援


 前回の投稿で、2011(平成23)年3月11日の東日本大震災の時のことを書きました。
 地元浦安市は、液状化現象の影響で、市内の体育施設は使用できなくなり、復旧には1年かかることがわっかた。

 通常、市内にある5つの剣道団体は皆、学校の体育館や武道館など、市の公共施設を使用して稽古を行なっている。それぞれの団体が"ホーム"として使用している施設が使えないのだ。
 市剣連が主催する剣道大会も1年間は中止になった。

 浦安も被災地だがもっと大変なのは東北の皆さん。
 所属する道場の会員さんから、こういう声が上がった。
 
 「私たちは稽古場所に困っているだけだが、東北の被災地の方々は避難生活をされているわけだから、そもそも物がない。素振りをしたくとも、竹刀すらないのではないか」

 道場のある先生が東北被災地の剣道連盟に問い合わせたところ、子供も大人も稽古をやりたがっているが竹刀がない、支援して頂けるのは大変ありがたい、ということだったという。

 それで、その先生の呼びかけで、浦安市剣道連盟本部道場として竹刀約100本を、支援物資として東北被災地に送らせていただいた。

「一人稽古」の徹底強化


 2011(平成23)年、被災後。
 道場での稽古もできない、1年間試合もない。
 これを好機ととらえ、「一人稽古」を徹底的に強化する道を選びました。

 剣道を再開して1年。自分なりには、かなり激しい稽古をしてきたつもりでしたが、もともと基礎的な体力が伴っていなかったところからの出発だった。だからすぐに限界がくる。自分では、「やってるつもり」になっていたのです。

 リバ剣当初は、数カ月も稽古すれば、すぐに昔の感覚が戻ると思っていましたが大間違い。
 あの頃と同じ努力をしなければ、その感覚は戻らないこともわかった。

「ナンバ歩き」の効果を確認


 地震発生時に職場から自宅まで、約20㎞歩いたことを前回書きました。(その様子はこちら
 その後、聞いた話ですが、同じ職場の同年代の人で、その日、私と同じように長距離を徒歩で帰った人は皆、ヒザを痛めたといいます。数日歩けなくなった人もいたそうです。

 私は、半月板の手術後数カ月しかたっておらず、段差の昇降には不安がある状態だったにもかかわらず、そういった症状は一切出なかった。
 やはり「ナンバ歩き」は足腰に負担がかからない歩き方であるということを、再確認できた。
 
 考えてみれば、剣道を再開を決意したころは、通常の走り方で毎日4~8㎞走っていましたが、その時使用していたランニングシューズは、3カ月ほどでボロボロになってしまった。
 その後、「ナンバ歩き」を実践するようになり、そのシューズも新しいものに買い替えた。同じメーカーの同じ種類のものですが、1年たってもまだまだ使える。靴にかかる負担も違うようです。

 年齢による足腰の衰えで、立合いの際の「機」のとらえ方が左右されるようでは、若い現役世代とガチンコ勝負などできるわけがない。
 年齢や運動能力に左右されない身体運用法の一つが「ナンバ歩き」。この歩き方を極めようと決意しました。

 これまでは、日常では、なるべく「ナンバで歩く」という気持ちだったのが、この時から、いかなるときも「ナンバで歩く」ようになった。
 さらに夕食後に、毎日8㎞のナンバ“走り”を自分に課しました。

自宅でいつでも「打ち込み稽古」


 前回の投稿で、木製の打ち込み台を作り、リビングに据えたことを書きました。
 それによって、もう、雑木林(防風林)の中に打ち込み稽古をしに行かなくてもすむようになった。笑(防風林の中での稽古の経緯はこちら

 「片手で、打って打って打ちまくる」
 
 自宅での打ち込み稽古は、それを信条にしました。
 その理由は、片手ででの打突が、諸手での打突と比較して、圧倒的に少ないということ。
 小学2年で剣道を始めた私は、剣道を断念する高校1年までで、どれほど「諸手」で打突してきたか。大まかな数字を出すのも不可能です。一方、「片手」での打突は、まだ始めて1年ほど。たかが知れている。

 以前、あるプロのピアニストのエッセイを読んだ時、ピアニストの“プロ”と“アマチュア”の違いについて、読者に問うている場面があった。
 私はすぐにその答えは「才能」だと思いましたが、違っていた。
 正解は「一日にピアノを弾く時間の長さ」だった。その人曰く、この違いは圧倒的なのだそうです。

 二刀流を始めた私にとって足りないもの。それは、「片手ででの打突の回数」ということになります。だから自宅で毎日、「片手で、打って打って打ちまくる」しかない。しかも“正しい片手刀法”で。

出稽古


 “一人稽古の強化”といっても、まったくお相手のいない稽古だけをしているわけにもいきません。同時に、実戦の感覚も磨かなければならない。
 
 浦安では施設が使用できないため、お隣の市川市へ出稽古に行かせていただくようになった。元々出身道場である市川市剣道連盟東部支部にはこの前年に登録していましたので、稽古には行っていましたが、市川市内の他の道場にも出稽古でお邪魔させていただくようになりました。

 どこへ行っても歓迎していただき、この時のご縁で本当にいい稽古をさせて頂き、勉強させて頂くことができました。今でも交流は続いています。

二天一流武蔵会東京支部の稽古会に参加


 震災後、最初の東京支部の稽古会に、二天一流第十七代師範の中村天信先生がお見えになった。
 中村師範は、寡黙な方。だから言葉に一切の装飾がない。今、心にあることをありのままにお話しされる。

 稽古開始前、参加した会員たちに対し、朴訥(ぼくとつ)とした話し方でこうおっしゃった。
 「一寸先は闇の世の中にあって、光明となるような二刀をするために、しっかり稽古しましょう」
 
 今でも胸に刻んで、稽古しています。


2019年5月7日火曜日

2011(平成23)年3月11日東日本大震災 居住地浦安も被災

ピンチをチャンスに


予兆のない出来事


 3.11東日本大震災で、かけがえのないご家族ご親戚を亡くされたご遺族の皆様に、改めてお悔やみ申し上げ、故人のご冥福をお祈り申し上げます。

 30年のブランクから剣道を再開して1年が過ぎたその日、私は東京ドームに近い職場で仕事をしておりました。
 突然の激しい揺れに危険を感じ、その場にしゃがみ込みました。
 生まれてこの方、こんなに強い地震は経験したことがありません。幸い職場の方たちにはケガはなかったので、外の様子を見に、職場の前の国道に出てみた。

 建物から飛び出してきたサラリーマンやOLが道路の中央分離帯のところに集まっている。建物内にいることや歩道への落下物に危険を感じてのことだ。泣き叫んでいる女性の姿も。
 近くの酒屋に目をやると、店内の酒という酒すべての瓶が棚から落ちて割れている。

20㎞歩いて帰宅


 これは、大変なことになった。
 職場にもどると、今日の仕事は中止だという。急いでしたくをして職場を出た。
 この時点では災害の規模は分かっていない。心配なのは妻と子供。二人とも浦安にいる。妻は仕事中で、息子は学校だ(当時小4)。
 浦安は埋め立て地で地震に弱い。海にも面しているので津波も考えられる。頼みのケータイも通じない。電車も止まっているらしい。家まで歩くしかない。
 
 調べてみると東京ドーム付近から浦安までは約20㎞。そんな距離は歩いたことはないが、とにかく歩き始めた。
 瞬く間に国道沿いの歩道は、帰宅を急ぐ人でいっぱいになった。

 私はこの数カ月前に右ヒザ半月板を損傷して手術したばかり。(その経緯はこちら
 20㎞も歩くことができるか自信はありませんでしたが、とにかく浦安にいる家族の無事をこの目で確かめたい一心で歩きました。

 同じ方向に歩く人の波の中で、私の後ろを歩く女性2人の会話が聞こえてきた。
 「今日中に家に帰れるかなぁ」
 「歩ける距離って、1時間で5キロよね」

 1時間で5㎞。浦安まで20㎞だから、4時間。21時前には着きそうだ。
 よし、こういう時こそナンバ歩きで歩こう!(ナンバ歩きとはこちら

 半月板の手術後のリハビリで、ウォーキングをしていた時、普通に歩いた日は手術した右ヒザが腫れるが、ナンバ歩きで歩いた日は腫れも痛みもなかったことを思い出した。

 3時間歩いたところで、疲労と空腹で座り込んでしまった。自宅まであと5㎞。幸いヒザは痛くない。しかし疲れて動けない。時計を見るともう1時間も座っている。
 気力を振り絞って再び歩き始めた。

 浦安市内に入ると街の様子がいつもと違う。
 車が1台も走っていない。
 停電で街の明かりはないが、暗闇の中でも風景が一変しているのがわかった。

浦安は液状化現象


 いつも通るコンビニの前。そのコンビニが何か変だ。
 よくみると、店内に砂が流れ込んでカウンターまで埋まっている。液状化現象だ。

 道路も波打って、平らなところなどない。アスファルトのひび割れから水を含んだ砂が噴出し、立ち往生した車が乗り捨てられている。道路脇の5階建てのビルの1階部分が地中に沈んで傾いている。街中のマンホールが人の背の高さほどに飛び出している。

 自宅マンションは大丈夫なのか。それよりも、学校にいただろう息子、職場にいた妻は大丈夫なのか。とにかく自宅を目指した。

 5時間かかって自宅マンションについた。周辺は液状化現象で道路も歩道も破壊されているが、マンション自体はいつものままだ。ただ、明かりのついている部屋はひとつもない。
 エレベーターも止まっているため階段を上って行き、自宅の玄関のカギを開けた。

 真っ暗な部屋の中に、妻と息子の笑顔があった。
 

仕事は1カ月"休業"


 仕事は会社から連絡があるまで自宅待機ということになった。事実上の休業。1カ月続きました。
 水道、電気、ガス、下水道など、ライフラインがストップしているため、まずは、その日その日の生活水と食料の確保が“仕事”になった。

 市内のライフラインが復旧したのは2週間後。水と食料の確保の“仕事”が必要なくなった。
 私の仕事はまだ再開されそうもないので、時間はある。
 市内の体育施設は液状化の影響で1年は使えないので、道場の稽古も再開の見通しが立たないらしい。
 リバ剣したばかりで、今またブランクを作りたくない。試合でも、ヘンな負け方をしているので、少しでも上達したいと気合を入れ直したところだった。

 「家で稽古できるように、しっかりした打ち込み台を自分で作ろう」

 1週間かけて木製の打込み台を作った。すべての打突部位が打てるやつ。
 リビングの椅子とテーブルをかたずけて、そこに置いた。
 この日から、リビングは道場に。家族からは大ヒンシュクをかったが、目標実現のためには仕方がない。リバ剣した時に、3年以内に市民大会で優勝すると決めたので(その時の経緯はこちら)、あと2年しかない。時間がないのだ。

稽古ができる環境をつくった


 液状化現象の影響でその年の市民大会も、早々に中止が決まった。すると次の市民大会はその翌年の5月。リバ剣して3年目になる。

 「よし、その大会に照準を合わせよう」

 大会まで1年以上ある。一から片手刀法の基本をやり直そう。この打ち込み台で、毎日稽古できる!

 この半年前の市民大会の負け方。(その様子はこちら
 あの負け方が、悔しくてしょうがなかったんです。


高校1年時に剣道継続を断念した理由 十二指腸潰瘍と極度の貧血

大好きな剣道をあきらめさせた病


初期症状は小学4年時


 現在(令和元年)、私は55歳になる。剣道を再開して9年がたち、その間に急性リンパ性白血病と診断され、闘病も経験した。
 この目まぐるしい、非常に充実した、“幸福”な9年間を中心に振り返って、現在このブログにしたためている。

 前回の投稿までに、高校1年時に剣道の継続を断念していることに、たびたび触れてきました。しかし、その経緯について記述していなかったことに気づいたので、今回の稿で明らかにしておきたいと思います。


1974(昭和49)年のこと。小学4年生だった私は、夜中に起こる「腹痛」に悩まされていました。しかし、トイレに行って小用をすると、その「腹痛」がなくなるので、親にも言わずにいました。

 5年生になると、その「腹痛」は授業中にも起きるようになります。多いのは午前中。空腹になると、痛みが出たんだと思います。
 担任に腹痛を告げて保健室に行くことが増えました。すると、学校から親にその状況が伝えられます。そして、ある日の放課後、母親と一緒に近所の内科医院を受診しました。
 
 症状を伝えると、なにがしかの薬を処方され、帰宅してから数日間服用しましたが効果なし。
 今度は胃腸科専門病院を受診した。すぐに胃透しの検査をすることになった。
 初めて飲むバリウム。当時の検査方法としてはここまで。胃カメラはまだ普及していませんでした。
 結果は胃には異常はないとのこと。ただの「腹痛」と診断された。

医者に対する不信感


 しかし、症状は悪化する一方。再度同じ病院を受診すると、診察の際、医者が同席している母親に“目くばせ”をしている。「この子は、仮病をつかっていますよ」と言っているのだ。それに気づいてしまった私は、いっぺんに医者を信頼する気持ちがなくなった。

 病院を替えるも、診断は同じ。子供ながらにも、今の医学はこんなものかと思いましたね。明らかな症状があるのに「異常はない」とは。
 6年生になるころには、一日数回、のたうち回るほどの痛みに襲われることもありました。

 中学生になると、一日に数回おう吐するようになりました。夜中でも激しい痛みは容赦なく襲ってきます。このころには、何をしても痛みが治まりません。ただ転げまわるだけ。睡眠時間は3~4時間しかとれません。
 こんな状態になっても、医者に対する不信感から、受診は拒絶していました。

胃カメラが開発されたが……


 高校受験が近づくころには、毎日血を吐くようになり、食欲もほとんどない。いよいよ医者に診てもらわなければならないと思い、受験が終わるのを待って、近所にできた総合病院へ。
 この時には、胃カメラが開発されていて、初めて内視鏡検査を受けることになった。
 検査の結果はやはり同じ。「異常なし」。しかし、この医師は“胃には”と付け加えた。
 
 どういうことかというと、私は生まれつき胃下垂で、胃が骨盤の近くまで下がっていたため、胃カメラが十二指腸まで届かなかったのです。当時の開発されたばかりの胃カメラは、全長が短かったんですね。だから届かない。それで、この医師は「胃には異常はない」と言ったのです。

当時の“常識”


 でもね、ここまで解っても、医者は十二指腸潰瘍を疑わないんですよ。もちろん私も両親も疑いませんでした。
 その理由は、当時、胃潰瘍や十二指腸潰瘍は「成人病」に分類されていた。つまり、“中高年がなる病気”とされていたのです。ですから、まさか小中学生が十二指腸潰瘍になるなんて誰も思わなかった時代なのです。
 「成人病」という名称が「生活習慣病」に変わり、中高年の病気という間違った認識が訂正されたのは、この数年後のことです。

 それで、この病気が放置されてしまった。一週間ほど入院しただけで治療らしい治療はなし。食欲が多少戻った時点で、退院となった。
 しかし、家に帰れば「腹痛」と吐血。高校に入学した時には、やせ衰えていました。

ドクターストップ


 そんな状態でも、剣道は何とか続けていました。剣道をやっている時だけは、痛みを忘れ、その苦しみから解放されるのです。しかし、高校1年の時、剣道部での稽古中にこんなことが起こりました。

 切り返しをするときには、最初に正面を打ちます。その勢いのまま体当たりして、切り返しに入りますね。
 私はかかり手で、元立ちの先輩の正面を打った瞬間のことです。突然、スイッチが切れたように全身の力が入らなくなったのです。その状態で体当たりしてしまった私は、後方に飛ばされ、受け身をとることもできずに、後頭部を床に強打してしまったのです。

 幸い頭は何ともありませんでしたが、倒れ方に異常を感じた顧問の先生に、病院に行くように指示されたのです。

 父親の友人の紹介で、御茶ノ水にある病院を受診しました。血液検査の結果、「極度の貧血」と診断されたのです。
 告げられた具体的な数値は覚えていませんが、正常値よりも数値が低ければもちろん「貧血」ですが、その数値をさらに低くした状態が「入院が必要な貧血」とすると、私の場合はさらにそれよりも低く、「危険な状態」ということでした。

 その場で、入院を強く勧められましたが、初めて来た土地で自宅からも遠く不安もあり、一人で決めることができずに、その日は薬を処方してもらい帰宅することにしました。
 その際、医師からこのような条件が付けられた。

  • いつどこで倒れてもおかしくない状態だと認識すること
  • 通学は車で送迎をしてもらうこと
  • 体育の授業や剣道は見学すること

 病院からJR御茶ノ水駅に向かう坂の途中で、「剣道ができなくなったオレは、何をすればいいんだろう」なんて考えてました。
 「腹痛」の原因が判明する前に、“極度の貧血”でドクターストップになるとは。

あっけない“終わり”と突然の“再開”


 その後、剣道部の顧問には退部を申し出ましたが、引き留められた。
 「休部にしておくから、病気が治ったらいつでも戻ってきなさい」
 暖かい言葉をもらいましたが、症状が快方に向かうことはなく、復帰することはありませんでした。

 大好きな剣道でしたが、やめる時はあっけなかった。

 病状は相変わらず。
 そして高校2年になって、さらに体調を崩した時に入院した病院で検査を受けた。「腹痛」の原因が十二指腸潰瘍と判明。このころ、ようやく胃カメラの長さが現在のように長くなっていたのです。

 当時は、潰瘍に対する特効薬がない時代。その薬が登場するのは、この8年後です。長い闘病生活を強いられました。

 いつしか、剣道のことはすっかり忘れ、30年の月日が流れた。
 もう思い出すことのなかった夢を、息子が思い出させてくれたのです。
 あの出来事で。

 

2019年5月5日日曜日

リバ剣 日常の稽古⑤ 期待されていない“リバ剣おやじ”

周囲の目は冷めている


道場のに通う子供の保護者たち


 「見た目は強そうに見えるんですけどね~」

 前回の投稿で、2010(平成22)年10月の市民剣道大会に出場したことを書きました。その大会後の懇親会の席で、ある保護者から言われた言葉です。
 まあ、言われてもしょうがないですよね。2大会続けて、ヘンな負け方をしてますからね。
 
 剣道をやっている人から言われるんだったらいいんですけどね。やってない人に言われると、傷つきますね。マジで。笑

目標は3年以内に市民大会優勝


 この目標は、リバ剣した時にたてたもの。(その時の状況はこちら
 私の場合、運動不足解消のためとか、子供と一緒に剣道がやりたいからとか、子供の稽古の指導を頼まれたとか、そういう目的で「リバ剣」したわけではありません。
 あることがきっかけでリバ剣を決意したのですが(そのきっかけは、こちら)、目標はガチンコ勝負で現役世代に勝つこと。その第一段階の目標として“3年以内の市民大会の優勝”を掲げたのです。

 しかし、1年たってもこんな状況でしたから、やはり現実は甘くないと思い始めましたね。
 そして、市民大会のレベルもあなどれないと思った。初心者から、私のようなリバ剣剣士、百戦錬磨の現役選手、熟練の高段者まで、垣根なく出場するのが市民大会。意外な猛者や伏兵がいるのも特徴です。
 また、市や県のレベルで代表に選出されている人が、市民大会出場を回避していることも見受けられます。そういった代表選手の中には、市民大会で“土”をつけたくない、負けたらかっこ悪い、そう思っている人も少なくないということも分かりました。
 私自身も、市民大会をナメてたな、と反省しました。

 でも、目標は決めてしまいましたから、それに向けてやるしかありません。

中学時代の恩師との再会


 リバ剣してもうすぐ1年。試合で結果が出てない現状に、暗中模索していたころです。
 お隣の市川市に小学生の剣道大会にを観戦しに、息子を連れて出かけました。
 市川市は、私が中学卒業まで剣道をやっていたところ。現在の小学生の試合のレベルはどうなっているのか、なんとなく知りたくなってのぞいて見た。

 会場の観客席に上がる通路で、懐かしい顔とバッタリ。同級生のJ君。中学と高校で一緒に剣道をやった仲間。会うのは28年ぶり。
 聞けばJ君も、十数年のブランクからリバ剣したそうで、その時二段だったのが六段まで昇段したとのこと。いきなり勇気をもらいました。

 その直後、今度は中学時代の剣道部の顧問にバッタリ。国士館大学出身の鬼のように怖い先生です。その先生が開口一番、「随分、穏やかな顔になったなぁ」ですって。
 私もそんなに怖い顔してたんですかね。笑

 30年ぶりに剣道を再開したことを伝えると、大変喜んでくれました。
 というのも、この先生は、私が高校に入ってから極度の貧血で剣道を断念したことを知ると、心配してわざわざ家まで来てくださったことがあるのです。それくらい、剣道と教育に熱心な先生。傍らにいた私の息子にもこんなふうに声をかけてくださった。

 「お父さんは、剣道が本当に強かったんだぞぉ」

 その時の、息子のうれしそうな顔、今でも忘れません。
 恩師からの証言ですからね。息子もやる気になったようです。

 私に対しては、こういう言葉をかけてくださった。

 「まあ、ケガに気をつけてやれよ」

 拍子抜けしました。笑
 全然期待されていないんだなって。運動不足解消でリバ剣したぐらいに思ってる。
 まあ、無理もないですね。ブランク30年で、このとき二段ですからね。そこそこのところでやってなさい、って感じでしょうか。

 「よし、絶対に驚かせてやる」

 その誓いが現実のこととなるのは、この2年後のことです。

予期せぬ出来事


 以前、防風林の雑木林の中で、打ち込み稽古をしていることを書きました。(その投稿はこちら
 あれは、雨の日以外は毎日続けていて、打ち込みに使用していた「カーボン竹刀」が2カ月でポッキリ折れるほど、熱が入っていました。

 仕事から帰宅して夕食を済ませて、まずは「ナンバ走り」を4~8㎞やります。(ナンバとはこちら
 その後、打ち込み用のカーボン竹刀を持って、海岸沿いの雑木林(防風林)に向かいます。いつも21:00ごろでしょうか。そこから、一時間半ぐらい片手で打ち込み稽古をします。

 街灯はありませんから、真っ暗な林の中で独り。目が慣れてきて、打ち込み用に据えた松杭がうっすら見えてきたら、稽古開始です。
 周囲にひと気は一切ありませんから、最初のころは恐怖心がありましたけど、慣れてしまえば本当に集中できる環境です。その日も、無心で稽古してました。
 
 しばらく稽古していると、背中にないはずの「人の気配」を感じたのです。
 恐る恐る振り返ってみると、5mぐらい後方に警察官が3人立っていた。何かの通報かパトロール中に来たんでしょうね。
 松杭の“頭”には緩衝材を巻き付けてあったので、打突音が響いたわけでもありません。コソコソしたら、不審者と思われるのではないかと思い、そのまま堂々と打ち込み稽古を続けました。
 数分しても、声をかけてこない。不思議に思って振り返ってみると、もうそこに警察官の姿はありませんでした。こんな夜中に、こんなところで剣道の稽古をしているんですからね。相当ヘンなやつだと思われたでしょうね。笑

 また、ある日のこと。いつものように真っ暗な雑木林の中で打ち込み稽古に熱中していた。すると、またしても「人の気配」。気味が悪くなって振り返ると、真後ろに人が座ってこちらを見てるんです。
 「ギャーッ」って、心の中で叫びましたよ。怖いなんてもんじゃない。真っ暗で誰もいない林の中で、知らない人が私をじっと見つめているんですから。
 警察官の時は、外見で素性が分かりましたからね。今回はどんな人か分からない。30歳ぐらいの男性ということだけ。本当に怖い。
 その人がニコッと笑って、声をかけてきた。

 「二天一流の稽古ですか?」

 その言葉を聞いて少し落ち着きました。剣道の関係者かなって。

 「そうです」と答えると、その方が堰を切ったように話し始めた。

 その方は、宮本武蔵の大ファンで、武蔵に関する劇画や小説、映画など、あらゆるものを研究しているそうで、川沿いの遊歩道を竹刀の大小を持って雑木林に向かって走って行く私の姿を見て、あとを追ってきたのだそうです。

 「もう少し稽古を見ていていいですか?」

 いやとも言えないので了解しましたが、気味が悪いので早々に稽古を切り上げて、その日は帰りました。

 その1週間後ぐらいでしょうか。その人と最寄り駅でバッタリ会ったのです。

 「先日はありがとうございました。本物の二天一流の稽古が見れるなんて思いませんでしたっ」

 スーツにネクタイ姿。きちんとした、いい青年でした。
 ああいう人のためにも、一日も早く理にかなった二刀ができるように頑張ろう。そう心を新たにしました。

子供だけは信じている


 子供って、「お父さんはすごい」って思っているところって、ありますよね。なにかにつけて。
 そういう子供の心を思うと、こちらもいい加減なことはできないし、手が抜けなくなってくる。そうすると、ますます自分の稽古に力が入ります。

 夜な夜な、竹刀を持って出かけていく“お父さん”。どんな稽古をしているのかと思ったんでしょうね。
 その日は、防風林の中の稽古についてくるという。2010(平成22)年の12月のこと。小雪がちらつく夜でした。息子は当時小学4年生。

 寒いからダメだと言ったんですけどね、どうしても聞かない。仕方なく許可して、一緒に海沿いにある雑木林(防風林)へ向かった。
 すると、林の入り口まで来たところで、帰りたいと言い出した。
 真っ暗な雑木林を見て怖くなってしまったんですね。

 「帰るなら、ここから一人で帰れ」

 そう言うと、心を決めた様子でついてきました。

 いつものように、ひたすら片手で打ち込み稽古をする私。傍らで座ってそれを見ている息子。小一時間ぐらいたったでしょうか。ちらつく雪の粒が大きくなってきた。

 「まだ終わらないの?」

 しびれを切らした息子が聞いてきた。

 「あと100本やったら帰ろう」と私。

 「じゃあ、ボクが数えるね!」

 そう言って、打ち込みを数え始めた息子。

 「………37、38、39、40、71、72、73………」だって。

 よっぽど早く帰りたかったんですね。笑


追記
 市内にこの一角だけ残っていた防風林ですが、この2年後にはその姿を消し、海浜公園に生まれ変わっています。白血病を患って退院後に、リハビリがてらこの公園に散歩に行くたび、あの日の思い出がよみがえります。


 

2019年5月4日土曜日

平成22年浦安市秋季市民剣道大会 屈辱的な負け方

剣道再開から10カ月目の試合


リバ剣後初の団体戦


 2010(平成22)年10月。リバ剣してから2度目の試合エントリーです。
 この秋季大会は団体戦のみ。個人戦は、春季大会で行われており、この年の5月に初参戦して2回戦敗退に終わっています。(その時の模様はこちら
 
 あれから5カ月。私なりに稽古を積みましたので、今回はもう少しいい試合ができるんじゃないかと、ひそかに思って参戦しました。

 この大会の団体戦は3人制で、私はこの時46歳で中堅。正二刀です。先鋒は30歳の左上段。大将は例の"お弟子さん"で40歳、逆二刀。(例の"お弟子さん"とは、こちら
 かなり目立ったチームになりました。道場の副会長が面白がって編成したようです。

 まあここまではよかったんですけどね。当日、会場入りしてビックリです。
 1回戦の相手チームは20代半ばで編成された、市内にある高校のOBチーム。
 勝てるわけありませんよ。この高校の柔剣道は全国レベル。私たちは、ただのオッサンですし、私はブランク30年ですからね。1回戦から現役選手との対戦が組まれるとは、主催者側の"意図"を感じました。笑

試合開始


 そういって、泣き言も言ってられませんからね。気持ちを入れ替えて、試合に臨むことになりました。

 先鋒は、お互い攻めきれず、時間切れで引き分け。

 次、中堅。私です。
 お相手は対二刀に慣れていないと見えて、小刀を警戒するあまりに、常に間合いをとっているんです。ですから、お互いに機をつかめない。打突がありませんから、両者反則をとられかねない展開になりました。
 私は焦りを感じ始めて、無理に間合いを詰めて打っていくんですが、有効打突にはなりません。打突の勢いで鍔迫り合いになりそうになると、これまた鍔ぜり合いを嫌って中途半端な間合いをとるんですね、お相手が。
 ここで主審の「ヤメ」がかかった。当然見ている誰もがお相手の反則だと思った。しかし3人の審判の合議の結果、反則は私についた。「正しい鍔迫り合いをしていない」ですって。
 両者反則ならまだしも、鍔迫り合いを避けるお相手が反則にならずに、私だけに反則ですって。観覧席がざわついているのが分かりました。
 後で分かったことですが、この審判の中に"アンチ二刀"がいて、その人が合議を主導していたんです。さらに、市剣連の上層部には2人ほど、"アンチ二刀"がいることもわかった。
 試合の方は、お相手もちゃんと鍔迫り合いをするようになったんですけどね。その時、先ほどの件で頭に血がのぼって、コート際で場外を背にしていることを考えてなかった。
そしたら、ポンと押し出されて場外反則。先ほどの反則と合わせてお相手に1本がついた。
 その後すぐに制限時間になり1本負け。

 そして、大将ですが、お相手は試合巧者で難なく引き分けに持ち込んだ。
 これで、チームは負け。勝敗は、私のところで決まったも同然です。

屈辱が大きな成長につながる


 悔しかったですね。子供の頃を含めてこんな屈辱的な負け方は初めてでした。いろんな意味で。

 まず、場外反則。春季大会のあの普通ありえない負け方と同じ。(その状況はこちら
 いまだに、コート感覚ができてなかった。恥ずかしいことです。

 そして、市剣連の"アンチ二刀"の存在。これはね、逆に私にパワーを与えてくれましたね。俄然やる気になった。正しい二刀をきわめて、必ずその方たちとの立合いを実現させて、理解してもらおう。そう心に決めた。
 "アンチ二刀"はね、正しくない二刀を最初に見ちゃってるからアンチになっちゃうんです。正しい二刀はちゃんと伝わります。一刀も二刀も同じ剣道ですからね。

 のちに、この"アンチ"の方々が一人ずつ二刀を理解していく様を、紹介していくことになります。

 でもね、一番困ったのが、例の大物二刀範士のお弟子さん。
 試合後に、道場のHPの掲示板に、私の二刀をクソミソに批判した投稿をしているんですね。まあ、この人からもパワーをもらいましたよ。
 この1年半後、この人とは、市民大会個人戦で直接対決することになります。

追記
 この時対戦したチーム。実は私の母校の後輩たちです。試合後に、挨拶に来てこう言ってました。

 「どうもすみませんでした」

 いい後輩です。笑


2019年5月3日金曜日

リバ剣 息子と稽古⑤「機をとらえる」「初太刀とは」

「石火の機」に挑む


正しい基本の稽古は一生するもの


 前回の投稿までに、足さばき、腰の遣い方、構え、一つ拍子の打ちを、息子と共に稽古し直してきたことを書きました。2010(平成22)年のことです。息子は当時小4。

 ここまでできても、安心はできません。一週間たてば足さばきが崩れる。すると、腰の遣い方が変わってしまう。それが、構えに表れる。体重移動の仕方が変わるので、一つ拍子の打ちができなくなる。
 これは、大人でも同じこと。自分で自分の基本を正しく修正することができるまでは、誰もが通らなければならない"難所"です。
 なぜ、"難所"なのか。自分で自分の基本を修正できるようにならないうちに、剣道から放れてしまう子供も多いからです。剣道の面白さが、全く解らないうちに辞めてしまうということです。
 ですから、なるべく早くこの“難所”をクリアさせてあげたいんですよね。そのためには、ある程度の厳しさは必要になってくる。それに耐えて、正しい基本を自分で稽古できるようになれば、「稽古の仕方」が解り始めるんじゃないでしょうか。
 やらされ感覚ではなく、本人が「稽古の仕方」を身に付ける。一生上達し続けるために、必要なことなんではないでしょうか。

「起こり」をとらえる


 正しい身体運用ができて、一つ拍子で打てるようになれば、「機をとらえる」ことができるようになります。
 息子は当時小学4年生。小さい子供にそんなことを教えるのはまだ早い、という人がいますが、「機をとらえる」のができないのは大人の方です。子供は素直ですから、正しく教えればすぐにできます。

 ご存じのように、機をとらえるところは三つ。居ついたところ、技の起こり、技の尽きたところ、ですね。
 まずは、技のおこり「出ばな」を息子に伝えました。
 教え方はいろいろあると思います。その子供に合った、理解できる教え方をすればいいと思います。息子には何パターンかの説明をしてすぐに理解できました。やや大げさに「起こり」を作ってやると、そこをとらえて“出ばな面”を打てるようになった。

「相面」自分を捨ててガチンコ勝負


 次は、相面を制することができるようにしました。
 相手が打ちかかってくるときに、恐怖心を捨てて正しい姿勢と動作で「打ち切る」ことができるように稽古した。もちろん、言葉ではなく稽古の中で子供自身が気づくまで何度も繰り返しました。

「初太刀」をとるということ、初太刀は「面」以外ありえない


 最近は、稽古が始まって、元立ちの先生に対していきなり小手を打って、「͡コテ、コテ、コテ」なんて言っている人が結構いますよね。昔だったらそんなことをしたら、ぶっ飛ばされて、帰らされましたよ。笑

 今の人たちは、初太刀で「面」以外を打つことが失礼なことだと分からない人が多いんですね。これも、「剣道のスポーツ化」が一因になっていると思います。残念なことですけどね。

 なぜ、「初太刀」を取りにいくのか。なぜ、初太刀は「面」なのか。
 このことは、回を改めて詳しく記述したいと思いますが、私が子供の頃に教えられたここを簡単にいうと、こういうことになります。

 真剣(日本刀)を執っての斬り合いで、最も理想的な勝ち方は、最初の一撃で相手を倒すということです。それに失敗すれば、次は自分が斬られるかもしれない。だから、「初太刀」に命を懸けるのです。
 命を懸けるというと大げさに聞こえるかもしれませんが、武士が抜刀するということは、その時点でもう後には引けない、すべてを捨てたという覚悟があるわけです。ですから、「初太刀」はまさに“命がけ”となるわけです。

 では、なぜ「面」なのか。これは、一撃で倒すためには、必殺技でなければならないということです。
 宮本武蔵は弟子たちに、「真剣勝負になったら、眉八文字を斬らなければ絶対に勝つことはできない」と常日頃から伝えていたそうです。「眉八文字」とは眉間(みけん)のこと。まさに「面」です。武蔵の養子である宮本伊織はのちに、武蔵は数十回の試合で眉八文字を外すことはなかった、と証言しています。
 剣道で一撃必殺の技は「面」なのです。他のどの部位を斬っても、相手は死に物狂いで反撃可能です。ですから、この「面」を稽古することが重要なのです。
 剣道の基本の打突は「面」から教わります。素振りも「面」、切り返しも「面」ですね。
 
 ゆえに、稽古で元立ちの先生にかかっていくとき、「初太刀」を必ずとるという気迫が必要です。昔は、初太刀をとりにこなかった子供は、稽古してもらえませんでした。ですから、何が何でも初太刀の「面」を取りにいくという気概がありました。

 ではなぜ、初太刀で「小手」や「胴」を打ったら元立ちの先生に失礼なのか。
 「スポーツ化した剣道」であれば、小手や胴も打突部位なんだから打ってもいいじゃないか、ということになっちゃうんでしょうね。
 試合であれば、いいですよ。どこを打ったって。勝負ですからね。
 でも、元立ちにかかるのは稽古です。「古(いにしえ)を稽(かんがえる)」わけです。ですから「初太刀」は一撃必殺の「面」なのです。

 ちなみに古来、小手、胴、突き、というのは、面打ちの稽古の際、師が弟子に対し指導のために打った場所といわれています。

  • 「小手」を打って、攻めに対して手元が上がったことを教える。
  • 「胴」を打って、脇があまくなったことを教える。
  • 「突き」を打って、中心が取れていないことを教える。

 それを、稽古の最初に、元立ちの先生に対してかかり手やったら、失礼だということです。

 稽古の最初、「初太刀」の「面」を何が何でもとりにいく。返されり、応じられると分かっていても渾身の「面」を打つわけです。
 その「初太刀」で、稽古の“質”が決まると言ってもいいんじゃないでしょうか。わずか5分程度の地稽古が本当に充実したものになるかどうか。
 そして、最後も渾身の「面」で締めくくるのです。稽古をつけて頂いた最後に、「初太刀」よりも上達した「面」を打つ、“捨てて打つ”ことが、礼儀なんではないでしょうか。

 小4だった息子が、どこまで理解したか分かりませんけどね。でも、先生方に対して失礼な剣道だけはしてほしくなかったので、伝えるべきところは伝えたつもりです。

剣道の面白さを知る


 ここまでのことができれば、「剣道は面白い」と思い始めるのではないかと思います。ですから、ある程度の厳しさがなければならないんじゃないでしょうか。甘やかして楽しいだけでは身に付かないことはありますからね。
 結果的には、息子に一番厳しく稽古することになってしまった。それでも毎回、稽古の最初は私のところに一番に並んで来た。
 うれしかったですね。息子とこんなふうに剣尖で会話ができるようになるなんて思ってもみませんでしたから。

 便宜上、“教える”という言葉は使ってますけど、剣道は“教える”ことはできないと思っています。教えて全部できるようになるんだったら、誰も苦労はしませんからね。心を開いて、厳しい稽古を通して、自分が“学ぶ”しかない。
 大人はその稽古の仕方を“示す”ことしかできないんじゃないでしょうか。

後は指導の先生にお任せしました


 この時点で、子供に身に付けて欲しかったことは、大体伝えられたと思います。
 最低限の稽古の仕方を身に付けて、あとは心を開いて精一杯稽古するだけ。
 中学生ぐらいになって、真剣に試合に勝ちたいと思うようになれば、また伝えることがあるんじゃないかと。

 私は私で、自分の稽古に集中して、息子にその後ろ姿を見せるだけです。

 とりあえずは、“剣道大好き”になってくれてたみたいで、安心しました。
 

 ある朝のこと。
 その日は道場の稽古のある日。
 息子は起きてくるなり、こう言いました。

 「やったぁーっ!今日は剣道だぁー!!」

 昔の私と同じです。笑


2019年5月1日水曜日

リバ剣 息子と稽古④ 一つ拍子で打つ

正しい「一足一刀」で打つ


一足一刀の間合い


 2010(平成22)年8月。当時小学4年の息子と初めて稽古した時のこと。
 「一足一刀の間合いから打ってみて」と息子に言ったら、「届かないよ」って言われました。しかも、偉そうに。笑

 言うまでもなく、「一足踏み込めば打突部位をとらえることができる間合い」ですね。
 具体的な距離は規定されていませんが、互いの切っ先が5cmほど交差する間合いと言われています。
 剣道をやっている人ならこの距離感は体に染みついていると思います。
 
 では、この「一足一刀の間合い」から“一足一刀”で打てる人はどれくらいいるでしょうか。

 実際問題として、「一足一刀の間合い」からでは届かない人が多いのではないでしょうか。
 基本稽古で、「一足一刀で打て!」と言われて、もう一歩前へ出てから打っている人、よく見かけます。その場合の間合いを“打ち間”と称している方もいますが、いずれにせよ「一足一刀の間合い」ではありません。
 または、届かないので左足を右足の前に出して、つまり二足一刀で打っている人も多いですよね。
 私が子供の頃は、こういったことをしていたら、怒られたなんてもんじゃない。大変なことになりましたよ。笑

 現在は指導者によっては「一足一刀の間合いでは届かないから一歩入って打て」と言っている方もいます。ご自分が一足一刀で打てないんですね。

 「一足一刀の間合い」は“一足一刀”で打てるから「一足一刀の間合い」なんです。
 それが届かないのであれば、“一足一刀”で打つための基本、身体運用が崩れているということになります。

 息子の場合は、前回の投稿で記述した「一足一刀で打つための3つのポイント」を実践しただけで、すぐに打てるようになりました。本人が「絶対届かない」と思っていたものが、届くようになる。届くだけでなく“正しく”打てるようになったのです。
 
 何も特別なことをしたわけではありません。基本に忠実に打突しただけです。

 私自身も、「一足一刀の間合いから一足一刀で打つ」という基本稽古をすることによって、正しい基本ができているかどうかのバロメーターにしています。

 「届かないよ」なんて自信たっぷりに宣言してた息子ですけどね、基本通りに正しく打って届くようになった後の顔は、やっぱり輝いてましたね。

「二つ拍子」で打っている


 前回の投稿で、記述が途中になってしまいました息子の拍子のとり方。
 「二つ拍子」になっている。
 大きく打ったら「二つ拍子」で、小さく速く打ったら「一つ拍子」というわけではありません。(その違いは、前回の投稿をご覧ください)

 「一つ拍子」の打ちをやって見せるんですが、できない。道場の子供たちで「一つ拍子」で打っている子の打ち方を見せても、自分との違いが分からないんですね。「ボクだって、ちゃんとできてるじゃん」ってなっちゃう。

 「二つ拍子」で打つ人の特徴は、構えた時に右足に体重をかけて立っているんです。たいていの人の利き足が“右”ですからね。その方が楽なんですね。
 しかし、打つためには、右足にほとんどの体重がかかっている状態からでは、打てません。一度、左足に体重を移してから、右足を上げて前方へ踏み出すことになります。
 この「左足に体重を移したとき」に拍子を一回とっているんですね。すべての動作がほんの一瞬ですが止まります。
 そのほとんどの人が、左足を動かす。体重を乗せやすい位置まで左足を継ぐんですね。

 立合う相手から見れば、ここが機になるわけです。打つ前の左足を継ぐという動作が、「起こり」となってはっきり表れる。余談ですが、息子は後に、この相手の「起こり」をとらえられるようになって、試合に勝てるようになっていきました。

「一つ拍子」の打ち


 「一つ拍子」で打つために大事なことは、常に敵(相手)を想定することです。
 「一つ拍子」で打てるということは、理合(りあい)を体現するための前提条件です。「二つ拍子」でしか打てない人は、理合の体現は難しいのではないでしょうか。理合の体現は独りよがりではできません。お相手が自分を斬ろうとしている、斬りかかってくる、あるいは斬りかかってきた、という状態が必要ですね。
 たとえ打ち込み台が相手でも、基本稽古の時も、相手を想定してこれらの機をとらえようとする心持が必要です。そうでないと絶妙な体重移動が伴いませんからね。

 そしてもう一つ大事なことは、前述した体重移動。
 右足に全体重がかかっていては、機をとらえられませんから、左右の足に均等にかける。打つ時は左足は継がず、構えた状態から右足を前方に出す。大きく振りかぶっても小さく振りかぶらずに打っても同じです。

 防具を着けずに一人で打つと、「一つ拍子」で打てる人も、防具を着けて相手と向かい合うと左足を継いでしまう人、多いんですよね。

 息子にはなかなか理解してもらえませんでした。自宅で、簡単な打ち込み台まで作って稽古しましたが、どうしてもできない。左足を継いでしまう、体重移動の仕方を直せないんですね。当時、小4ですからね、まだできなくてもいいんですけど、できている子供もいますから。親が剣道をやっているのに、そのままではかわいそうだと思いましてね。

 そのころ、私が好きで観ていたのが『座頭市』のDVD。北野武監督のやつ。

 「そうだ、これを見せてみよう」

 名刀を手に入れた悪徳商人が、自分の使用人に試し斬りを命ずるシーン。
 たまたま通りがかった目の不自由な座頭市は恰好の餌食と思われた。名刀を抜いて上段に構える使用人。息を殺してそのまま座頭市の左側に回った。座頭市は気配、呼吸、わずかな物音から相手を正確にとらえている。座頭市の“仕込み杖”の柄に右手がかかった。
 使用人が息を継いで名刀を一気に振り下ろそうとする刹那、その「起こり」をとらえた座頭市が抜き打ちで名刀の柄を両断した。柄を斬ったのは相手が素人とみてのこと。

 息子は真剣に画面に見入っていました。

 「座頭市は刀が鞘(さや)に収まった状態から“一つ拍子”で斬っている。これは抜刀術というんだ。お前は鞘から抜いて、構えた状態から打つんだから、“一つ拍子”ができないわけがないよ。やってごらん」

 おもむろに竹刀をとって打ち込み台に向かった息子。

 スパァーン!

 「一つ拍子」の打ちができるようになった瞬間でした。


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