素振りで「太刀の道」を探し出し、確認し、体得する
"ゆっくり振る"には忍耐が必要
前回の投稿で、二天一流の片手素振りを習ったことについて書きました。(その内容はこちら)
極意は、ゆっくり静かに振ること。
「それって、実践に役立つの?」って思いました。スローモーションのように木刀を振って、いったい何が身に付くのだろうと。
しかし、指導してくれた方の言う通り、だまされたと思って、毎日やってみることにしました。
正しい手順でゆっくり振ると、すぐに気づきました。
「これはキツイ」と。
前進後退してビュンビュンと早く振った方が、よっぽど楽です。
50~100本はやろうと思っていましたが、あまりのキツさに集中力が続かず、初日は20本程度しかできませんでした。
無理はせず、「正しく」集中してできる本数をやろうと決め、毎日少しずつ増やしていきました。
そして、一週間がたち、一日に50本ぐらい振るようになった時、ちょっと変化があったのです。
キツイと思いながらやっていた片手素振りが、キツくない。重いと感じていた木刀が、重くないのです。
徐々にそうなったのではありません。一週間たったころ突如としてそうなったのです。
これを継続していけば、もっと大きな変化が得られるのではないかという、期待が膨らみました。
しかし、あせりは禁物。通常の速さで素振りをするならどんどん本数を増やせますけど、スローモーションでやってますからなかなかそうもいかない。50本ぐらいがちょうどいいと思い、そのペースで毎日続けました。
理想の素振りには「手応え」がある
ビュン!
いつものように、スローモーションで素振りをしていたつもりが、突然、木刀が空気を斬った。目にも止まらぬ速さで振ったのです。
そうしようとしたのではありません。力加減はいつもと同じ。木刀が勝手に走ったという感じです。
二天一流の片手素振りを始めて2カ月が過ぎたころのことです。衝撃でした。
「これが宮本武蔵が言う〈太刀の道〉なんだ」
この時、木刀の抵抗をまったくといっていいほど感じなかったのです。気づいたら振り終わっていた。構えた位置から、振り下ろした位置まで、木刀が瞬間移動したような感じといったらいいでしょうか。
木刀の重心を意識して、ゆっくり静かに"正しく"振り続けた結果の出来事です。
宮本武蔵が『五輪書』の中で言う「太刀の道」とは、単なる軌道や刃筋のことではない、ということを体感した瞬間でした。
腕力や筋力で、木刀の重量をねじ伏せて振るのではなく、「太刀の道」で振るということが解った。
しかし、これはまだ"偶然"の域を出ない。何百回、何千回振っても「太刀の道」で振れるようになるために、片手素振りの稽古を続けました。
ゆっくり振っても、ビュンと木刀が走ってしまう。なので、次第に素振りの本数も増えて、一日に数百本やるようになっていきました。
本数が飛躍的に伸びたのはもう一つ理由があって、当初は右片手だけでやっていた素振りを、左片手でも同じ本数をやるようになったから。
最終的には、正逆両方できる二刀者になるという目標がありますから。
とある日本画との出会い
余談ですが、休日に当時小学生だった息子と美術館に出かけることが、たびたびあった。二天一流の片手素振りをやり始めたころのことです。
ある美術展で一点の日本画の前に立ったとき、ハッと息をのんだ。
『初夏浄韻』という題名のついた、深緑の木々が生い茂った山中にある小瀑を描いた絵です。後藤純男さんという日本画家の作品でした。
山の中にたたずむ小さな滝。描かれた落水を見てこう思った。
「滝の水は誰かによって垂直に落とされているのではなく、自らの重量で理に逆らうことなく垂直に落下している」
片手素振りをしている時、構えた時は正中線上にあるのは木刀の重心だけ。(写真上)
振り始めると、重心を正中線上に維持したまま拳(こぶし)を正中線上にもってきますから、剣先も正中線上にきます。太刀筋が正中線と一致するわけです。そのまま垂直に振り下ろせば「正面」を斬ることができる。
この、正中線を「垂直」に振り下ろすということが、非常に難しいのです。
垂直に真っすぐ振ろうと手首をこねれば微妙にずれる。鏡はウソをつきませんから、ハッキリそこが見えてしまうのです。
『初夏浄韻』の絵を見た時、手首や腕の振り方の調節で木刀を垂直に振ろうとしていた自分に気づいた。
木刀の重さでおのずから落下するその動きに、腕が加勢していくように振ればいいんだと分かったのです。
木刀の重さを引き出して振る
後藤純男画伯の日本画を見て感じたことをそのまま素振りでやってみた。
垂直に振れるんですよ。片手正面素振りの太刀筋が正中線に一致するんです。こういうことか、って思った。
これで、片手刀法のための"正しい"片手素振りを理解できた。
あとは、この稽古が、どう「手の内の冴え」に結びつくのかですね。