大好きな剣道をあきらめさせた病
初期症状は小学4年時
現在(令和元年)、私は55歳になる。剣道を再開して9年がたち、その間に急性リンパ性白血病と診断され、闘病も経験した。
この目まぐるしい、非常に充実した、“幸福”な9年間を中心に振り返って、現在このブログにしたためている。
前回の投稿までに、高校1年時に剣道の継続を断念していることに、たびたび触れてきました。しかし、その経緯について記述していなかったことに気づいたので、今回の稿で明らかにしておきたいと思います。
1974(昭和49)年のこと。小学4年生だった私は、夜中に起こる「腹痛」に悩まされていました。しかし、トイレに行って小用をすると、その「腹痛」がなくなるので、親にも言わずにいました。
5年生になると、その「腹痛」は授業中にも起きるようになります。多いのは午前中。空腹になると、痛みが出たんだと思います。
担任に腹痛を告げて保健室に行くことが増えました。すると、学校から親にその状況が伝えられます。そして、ある日の放課後、母親と一緒に近所の内科医院を受診しました。
症状を伝えると、なにがしかの薬を処方され、帰宅してから数日間服用しましたが効果なし。
今度は胃腸科専門病院を受診した。すぐに胃透しの検査をすることになった。
初めて飲むバリウム。当時の検査方法としてはここまで。胃カメラはまだ普及していませんでした。
結果は胃には異常はないとのこと。ただの「腹痛」と診断された。
医者に対する不信感
しかし、症状は悪化する一方。再度同じ病院を受診すると、診察の際、医者が同席している母親に“目くばせ”をしている。「この子は、仮病をつかっていますよ」と言っているのだ。それに気づいてしまった私は、いっぺんに医者を信頼する気持ちがなくなった。
病院を替えるも、診断は同じ。子供ながらにも、今の医学はこんなものかと思いましたね。明らかな症状があるのに「異常はない」とは。
6年生になるころには、一日数回、のたうち回るほどの痛みに襲われることもありました。
中学生になると、一日に数回おう吐するようになりました。夜中でも激しい痛みは容赦なく襲ってきます。このころには、何をしても痛みが治まりません。ただ転げまわるだけ。睡眠時間は3~4時間しかとれません。
こんな状態になっても、医者に対する不信感から、受診は拒絶していました。
胃カメラが開発されたが……
高校受験が近づくころには、毎日血を吐くようになり、食欲もほとんどない。いよいよ医者に診てもらわなければならないと思い、受験が終わるのを待って、近所にできた総合病院へ。
この時には、胃カメラが開発されていて、初めて内視鏡検査を受けることになった。
検査の結果はやはり同じ。「異常なし」。しかし、この医師は“胃には”と付け加えた。
どういうことかというと、私は生まれつき胃下垂で、胃が骨盤の近くまで下がっていたため、胃カメラが十二指腸まで届かなかったのです。当時の開発されたばかりの胃カメラは、全長が短かったんですね。だから届かない。それで、この医師は「胃には異常はない」と言ったのです。
当時の“常識”
でもね、ここまで解っても、医者は十二指腸潰瘍を疑わないんですよ。もちろん私も両親も疑いませんでした。
その理由は、当時、胃潰瘍や十二指腸潰瘍は「成人病」に分類されていた。つまり、“中高年がなる病気”とされていたのです。ですから、まさか小中学生が十二指腸潰瘍になるなんて誰も思わなかった時代なのです。
「成人病」という名称が「生活習慣病」に変わり、中高年の病気という間違った認識が訂正されたのは、この数年後のことです。
それで、この病気が放置されてしまった。一週間ほど入院しただけで治療らしい治療はなし。食欲が多少戻った時点で、退院となった。
しかし、家に帰れば「腹痛」と吐血。高校に入学した時には、やせ衰えていました。
ドクターストップ
そんな状態でも、剣道は何とか続けていました。剣道をやっている時だけは、痛みを忘れ、その苦しみから解放されるのです。しかし、高校1年の時、剣道部での稽古中にこんなことが起こりました。
切り返しをするときには、最初に正面を打ちます。その勢いのまま体当たりして、切り返しに入りますね。
私はかかり手で、元立ちの先輩の正面を打った瞬間のことです。突然、スイッチが切れたように全身の力が入らなくなったのです。その状態で体当たりしてしまった私は、後方に飛ばされ、受け身をとることもできずに、後頭部を床に強打してしまったのです。
幸い頭は何ともありませんでしたが、倒れ方に異常を感じた顧問の先生に、病院に行くように指示されたのです。
父親の友人の紹介で、御茶ノ水にある病院を受診しました。血液検査の結果、「極度の貧血」と診断されたのです。
告げられた具体的な数値は覚えていませんが、正常値よりも数値が低ければもちろん「貧血」ですが、その数値をさらに低くした状態が「入院が必要な貧血」とすると、私の場合はさらにそれよりも低く、「危険な状態」ということでした。
その場で、入院を強く勧められましたが、初めて来た土地で自宅からも遠く不安もあり、一人で決めることができずに、その日は薬を処方してもらい帰宅することにしました。
その際、医師からこのような条件が付けられた。
- いつどこで倒れてもおかしくない状態だと認識すること
- 通学は車で送迎をしてもらうこと
- 体育の授業や剣道は見学すること
病院からJR御茶ノ水駅に向かう坂の途中で、「剣道ができなくなったオレは、何をすればいいんだろう」なんて考えてました。
「腹痛」の原因が判明する前に、“極度の貧血”でドクターストップになるとは。
あっけない“終わり”と突然の“再開”
その後、剣道部の顧問には退部を申し出ましたが、引き留められた。
「休部にしておくから、病気が治ったらいつでも戻ってきなさい」
暖かい言葉をもらいましたが、症状が快方に向かうことはなく、復帰することはありませんでした。
大好きな剣道でしたが、やめる時はあっけなかった。
病状は相変わらず。
そして高校2年になって、さらに体調を崩した時に入院した病院で検査を受けた。「腹痛」の原因が十二指腸潰瘍と判明。このころ、ようやく胃カメラの長さが現在のように長くなっていたのです。
当時は、潰瘍に対する特効薬がない時代。その薬が登場するのは、この8年後です。長い闘病生活を強いられました。
いつしか、剣道のことはすっかり忘れ、30年の月日が流れた。
もう思い出すことのなかった夢を、息子が思い出させてくれたのです。
あの出来事で。