稽古の目的は「反発の解除」
日常の動作は、反発に満ちている
「何ものかに反発している場合、人はそれを知ることはできない」
その通りだと思う。
私たちは歩くとき、動かない地面を支えにして、踵(かかと)を上げながらその地面を足の裏で蹴って前へ進む。地面を蹴るという"反動"で前へ進んでいる。
また、テレビで野球中継を観ていると、バッターがウェイティングサークルで重いバットで素振りをしている光景をよく目にする。これは、重いものを振って、バットの重みを力でねじ伏せ、軽く感じるようにしているのだろう。つまり、重さに対して"反発"しているのだ。
このような反発の習性は、日常のいたるところに見られます。
剣道は、この習性から、可能な限り自由になろうとするものです。
解除しなければならない4つの反発
- <地面に反発>
反発しない歩き方とは「ナンバ歩き」。(ナンバの足法については、こちら)
古来、日本人がワラジや草履をはいて歩く時の歩き方。日本の武術はこの身体運用法を前提としているといってよい。これができるようになれば、左足で床を"蹴って飛ぶ"必要がなくなる。踏み込む前の溜がなくなる。 - <胴体に反発>
この反発を解除するには、竹刀の柄をを小指と薬指で軽く握り締めること。小指から脇の下につながる筋肉(これを下筋と呼びます)が締まり、腕の動きと胴体は反発しない。
わしづかみにすれば、体と剣はバラバラになり、互いに反発し合う。 - <太刀の重さに反発>
竹刀の重さに反発したり、力でねじ伏せるような操作はしない。竹刀の重心を意識した操作をすることによって、重さを引き出して(利用して)振ることができる。(片手刀法の重心に関する記述はこちら)
諸手一刀中段に構えた場合は、竹刀の重心を頭の上に引き上げて振りかぶらない。振り上げた竹刀の重心の下に、右足を踏み出して体を入れる。体を一歩前へ出して、振り上げた竹刀の重心の下に入るようにする。
前者は、重心のベクトルが後方に向かってしまう。後者は、ベクトルが前方に向いたまま。前方にいる相手を斬るという、体のベクトルと一致する。
竹刀の重量と重心の方向を感じ取っていれば、その重量が移動する動きに腕が加勢するように振ることができる。 - <相手の動きに反発>
力まかせに打ったり、独りよがりに技を出さない。相手の力を利用し、拍子をつかみ、相手を引き出す。相手を敵ではなく、あたかも理合を体現するための協力者のように動かすことが肝要。
兵法の身なり
宮本武蔵は『五輪書』の中で、以上のような、反発の原理を克服しうる身体運用のあり方を、「兵法の身なり」という言葉で解説しています。
作用と反作用の中で動く身体の習性は、なぜ消し去らなくてはならないのでしょうか。
この習性に従っていればどうなるか。
- 体に無駄な負担をかける。
- 動く気配が事前に出る。
- 拍子が遅れる。
剣道では致命的といわれる特徴が、表れてしまいます。
しかし、こういったことは、一挙に解消できるのです。
大事なことは、こうした反発の原理を克服すること。
この反発の原理を解除し、ある意味の自由をつかんだところに、「理」の体現があるのではないでしょうか。
それとは逆の、反発を強化するような練習やトレーニングはすぐに限界がくる。誰もが自身の身をもって経験したことではないでしょうか。
兵法の身を常の身とする
常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とする事肝要也。(『五輪書』「水之巻」)
これも、武蔵が繰り返し説くところです。
「日常の最もありふれた動作を深く変更して、作用と反作用の対立から解き放たれた身体の、新たな自由を得るのだ」と、武蔵は言っているのです。
では、どうすればその自由を得ることができるのでしょうか。
これも武蔵がはっきり言い残しています。
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」
近道はないようです。
武蔵がそこに無愛想に立っているようですね。