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2020年4月19日日曜日

『五輪書』の序章に書かれた宮本武蔵の真意とは

地之巻冒頭に隠された真実を読み解く


古典を直訳しても意味が通じるわけがない


 古典に精通している方でない限り、すべてを原文で読むことは難しいと思います。
 約400年前に宮本武蔵が書いた『五輪書』は、原文と現代語訳が併記されたものが多数出版されています。通常は、原文を目で追いながら、現代語訳の方を読む方が多いのではないでしょうか。
 私もそのひとり。『五輪書』を初めて読んだのは高校2年のときです。(その時の状況は、こちら

 「この本の核になるもの、武蔵が伝えようとしているものが解らない」

 これが率直な感想でした。

 今から10年前の2010年、45歳の時に剣道を再開し、同時に二天一流武蔵会の門をたたきました。(そのきっかけは、こちら
 すると、実際に二天一流の稽古をする中で、ふと、あることに気づいたのです。

 「巷にあふれた『五輪書』の現代語訳は、ただの直訳だ」

 そうなんです。ただの直訳なんです。文芸評論家や東洋哲学者たちが古典である『五輪書』をただ現代語に訳した結果、そうなってしまっている。
 戦国期に誕生した剣術諸流派の流儀の概念や具体的な刀法を理解していない人たちが、歴史に実在した達人の書いた兵法伝書をいじくり回しているのですから、まことにひどい話です。(剣術諸流派の流儀、刀法についての記述は、こちら
 やられたほうの宮本武蔵も、たまったものではないでしょう。生涯をかけて思索しぬいて顕かにした思想を、まったく理解できない文章に変換されてしまっているのですから。

 それぞれの分野では“先生”と言われるような方々が書いた『五輪書』の現代語訳ですけどね、中学生の頃に英語の授業で長文をすべて直訳して失笑をかっている人がいましたが、それと何ら変わりありませんね、失礼ながら。
 私たちは、そんな直訳を武蔵の思想として読まされてきたわけですから、理解に苦しみ、武蔵を誤解してしまっている人さえいることは無理もありません。

 この稿では、今日の文章でいえば「序章」とか「前文」にあたる部分、『五輪書』地之巻の冒頭に書かれた武蔵の真意を、読み解いていきたいと思います。

地之巻冒頭の引用


 「兵法の道、二天一流と号し、数年鍛錬の事、始而(はじめて)書物に顕(あら)はさんと思ひ、時に寛永二十年十月上旬の比(ころ)、九州肥後の岩戸山(いわとのやま)に上がり、天を拝し、観音を礼(らい)し、仏前にむかひ、生国(しょうこく)播磨(はりま)の武士新免武蔵守藤原(しんめんむさしのかみふじわら)の玄信(げんしん)、年つもつて六十。
 我、若年(じゃくねん)のむかしより兵法の道に心をかけ、十三歳にして初而(はじめて)勝負をす。其(その)あいて新当流有馬喜兵衛といふ兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬国(たじまのくに)秋山といふ強力(ごうりき)の兵法者に打勝つ。廿一(にじゅういち)歳にして都へ上がり、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるといふ事なし。其後(そのご)国々(くにぐに)所々(ところどころ)に至り、諸流の兵法者に行合(ゆきあ)ひ、六十余度迄(まで)勝負すといへども、一度も其利(そのり)をうしなはず。其程(ほど)、年(とし)十三より廿八、九迄の事也。
 我、三十(みそじ)を越へて跡(あと)をおもひみるに、兵法至極(しごく)してかつにはあらず。をのづから道の器用有(あり)て、天理をはなれざる故(ゆえ)か。又は他流の兵法、不足なる所にや。其後(そのご)なをもふかき道理を得んと、朝鍛夕練(ちょうたんせきれん)してみれば、をのづから兵法の道にあふ事、我五十歳の比(ころ)也。其(それ)より以来(このかた)は、尋ね入(い)るべき道なくして、光陰(こういん)を送る。兵法の利にまかせて、諸芸・諸能の道となせば、万事におゐて、我に師匠なし。今此(この)書を作るといへども、仏法・儒道(じゅどう)の古語をもからず、軍記・軍法の古きことをももちひず、此(この)一流の見たて、実(まこと)の心を顕(あら)はす事、天道と観世音(かんぜおん)を鏡として、十月十日の夜寅(とら)の一てんに、筆をとつて書初(かきそ)むるもの也」(『五輪書』地之巻)

解説


 この文章に、異常人の猛々しい傲慢や幼稚な自己顕示を見てしまう学者がいることは、驚きです。著名な小説家までもがそう解釈する思考力は、大変弱々しいものと言わねばなりません。
 なぜそう見てしまう人がいるのか。それは、この文章があまりに正直で、正確で、まったくの裸のままの姿をしているからにほかなりません。

 いったい、武蔵は何のために、あの者に勝ち、この者に勝ち、二十八、九の歳まで六十数度の勝負に無敗であったということを、わざわざ書いているのか。
 そういう勝利が、「兵法至極」によるものではなかった、と言うためにです。
 ということは、二十八、九の歳までの自分自身を武蔵が全否定してることになります。

 勝ちは単に自分にそこそこの天分が、「道の器用」があり、相手がたまたまそんな自分より弱かったから。ただそれだけのことである。
 そんなことを六十数度も繰り返せば、もうたくさんになる。だから武蔵は自己の天分を試すようなそうした勝負を、三十を過ぎた頃にやめてしまった。
 武蔵は「至極」に達するために、偶然の勝負と手を切ろうとした。「器用」にまかせて勝ち続けていたのではわからぬ「至極」がある。彼はそう言っているのです。

 彼の敵は、「器用」の限りを尽くして彼を倒そうとする現実の相手です。自分に器用があるように、相手にもそれぞれの器用がある。立合ってみれば、自分の器用と相手の器用は同じ質のものであることがわかる。違うのはその程度、ほんのわずかな程度の違いなのです。
 それで、日々の生死がむごたらしく分かれる。この現実を何とかするものが兵法であり、武士がその探究に生涯をかけるに足るものだ。武蔵は、そのことが三十の頃にわかったと書いているのです。

 このとき、「器用」にまかせた立合いから、突如として「至極」への道が身体に向かって開かれたということがわかります。
 この「至極」への到達を成し切るために、武蔵はさらに二十年の歳月を費やしたと書いている。

 この間、彼はほとんど試合をしていないと言われています。武蔵自身も、試合をしたともしていないとも書いていません。
 ただこういうことが言えるのではないでしょうか。彼にとって真剣を執っての斬り合いは、兵法修行の過程から消えるものとなったと。
 人を活かし、物を活かし、おのれの身体のすべてを活かし、敵の働きのすべてをも活かし切って「勝つ」。あらゆる物を活かすことに勝つ「至極」への道が、ここに端を開くわけです。
 
 このように、極度に端的に書かれた文章を読むにつけ、自慢したり、謙遜したりすることに、彼は何の興味も持っていないことがわかります。
 戦国の世が終息しかかった時代に、自分はただ一人このような経験から出発してみるほかなかった。戦場での経験が数々の流祖を生み出した時代は、もう過ぎ去っている。
 それでも自分は一人の流祖たらんとして振る舞い、「兵法至極」を目指して生きた。
 戦国期の流祖たちが成した仕事を一から徹底して考え、やり直し、そしてひとつの思想体系に仕上げる。武蔵が「兵法の道」、「実の道」の名のもとに行なおうとしたことは、実にこの仕事なのです。(武蔵の思想については、こちら

 そして、自分の生涯は「実の道」を極めるという、このまったく明瞭な経験以外のものではあり得なかった。「実の道」は、兵法だけにあるのではない。およそ技術を持ち、道具を用いて生きていくあらゆる人間のあいだに無数の度合で存在する、ある語りがたい働きである。彼はそう言っているわけです。


 最後に、引用文の最終行に注目していただきたい。

 「十月十日の夜寅(とら)の一てんに、筆をとつて書初(かきそ)むるもの也」

 と、ありますが、寅の刻とは早朝四時半頃のことです。ここで注意していただきたいのは、武蔵は、早起きして『五輪書』を書き始めたと言っているわけではないのです。

 寅の一点とは、いわば「夜の空」と「昼の空」が切り替わる時です。その刹那に、自分の生涯をかけた書を書き始めたと言っている。
 夜と昼の「二天」が切り替わるとは、陰陽の円明思想に基づくもの。二天一流の意味を深く示唆しているのです。

 剣術(剣道)において、物毎(ものごと)が切り替わる刹那というのは、打突の機会になります。なぜなら、相手は攻撃も防御も出来ない瞬間だからです。その拍子になるように相手を動かし、「石火の機」をとらえて打突する。その瞬間は、こちらも一切防御なしです。

 この打突の機会は三つあり、二天一流では、

  • 待(たい)の先(せん) 相手の技が決まる刹那
  • 体々(たいたい)の先  相手の技の起こる刹那
  • 懸(かかり)の先    相手が居付く刹那

 と言います。現代剣道では、これを、それぞれ、技の尽きたところ(応じ技)、技の起こり(出ばな技)、居付いたところ(先制の技)と言いますね。

 この「寅の一点」(打突の機会)という概念が、武蔵の自流にとって最も重要な要でることを、示唆しているのです。

 武蔵が二天一流の名に込めた深い思いが、ひしひしと伝わります。
  

引用・参考文献
 『五輪書』宮本武蔵著、渡辺一郎校注、岩波書店、1985年
 『五輪書』宮本武蔵著、鎌田茂雄全訳注、講談社、1986年
 『五輪書』宮本武蔵原著、大河内昭爾現代語訳、Newton Press、2002年
 『武蔵の剣』佐々木博嗣編著、スキージャーナル、2003年
 『宮本武蔵 剣と思想』前田英樹著、筑摩書房、2009年


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