後悔などしないという意味ではない
後悔と反省
行なったことに対して後から悔んだり、言動を振り返って考えを改めようと思うこと。凡人の私には、毎日の習慣のように染み付いてしまっています。考えてみれば、この「習慣」は物心がついた頃から今までずっと繰り返してきた行為です。おそらく誰もが長い年月、積み重ねてきた習慣。しかし、その積み重ねた経験によって、後悔したり後から反省することが必要ないような自分に、なることができた人がいるのでしょうか。
「我事に於て後悔せず」(『独行道』宮本武蔵)
武蔵のこの言葉は、自分は常に慎重に正しく行動してきたから、世人のように後悔などはせぬというような浅薄な意味ではありません。ちなみに『独行道』とは、武蔵が死の七日前に、自らの生涯を省みて記した二十一箇条の言葉です。
人はどうあるべきか
後悔や反省などは、ただのポーズだと武蔵は言っているのです。自己批判や自己清算だとかいうものも、皆ポーズだと。
そんなことをいくらしてみても、真に自己を知る事はできない。そういうこざかしい方法は、むしろ自己欺瞞(ぎまん)に導かれてしまうと、警鐘を鳴らしているわけです。
昨日のことを後悔したければ、後悔すればいい。いずれ今日のことを後悔しなければならない明日がやって来てしまうのだ、という意味だと私は思います。決して、後悔や反省など必要ないという単純な意味ではありません。
武蔵が体現した生き方
その日その日が自己批判に明け暮れるような道を、どこまで歩いても、理想の自分に出会うことはない。別な道がきっとある。自分という本体に出会う道が必ずある。後悔などという"おめでたい"手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ。そういう確信を武蔵は語っているのです。
それは、今日まで自分が生きてきたことについて、そのかけがえのない命の持続感というものを持て、ということになるでしょう。そこに「行為の極意」があって、後悔など、先だっても立たなくても大した事ではない、そういう「極意」に通じなければ、事前の予想も事後の反省も、影と戯れるようなものだと、この達人は言っているのです。
ではその「極意」とは何なのか。
それは、武蔵が遺した『五輪書』に「実の道」というキーワードとともに余すことなく書かれています。兵法伝書たるものをはるかに超えた『五輪書』。この書には、武蔵が生涯をかけて実証した思想が記されているのです。
武蔵は言います。「実の道」は兵法にだけあるのではない。およそ技術を持ち、道具を用いて生きていくあらゆる人間のあいだに無数の度合いで存在する、ある語りがたい働きである、と。(「実の道」に関する記事は、こちら)
兵法というものを、あるいはひとつの思想というものを、これほど具体的な、また生活上の実践から生み出した流祖は、彼のほかにはいないのです。
『五輪書』に表れた彼の考えには、人生論的説教も傲慢な自己宣伝も一切ありません。彼はここで非常に単純な、また同時に語りがたい思想を語ろうとしています。それは、つまるところ日常生活をよく生きることに関するひとつの徹底した思想です。
『独行道』は戒律ではない
『独行道』を、武蔵が自身に課した、あるいは指針にした、戒律だと考えている方も多いのではないでしょうか。その二十一箇条は守らなければならない決まり事ではありません。
鍛錬によって磨かれた身体と技と心が、「実の道」という境地にたどり着いたときに実行される日常が、どのようなものかを表しているものなのです。
稿の終わりに、『独行道』の全文をを引かせていただきます。
独行道一、世々の道をそむく事なし。一、身にたのしみをたくまず。一、よろづに依怙(えこ)の心なし。一、身をあさく思、世をふかく思ふ。一、一生の間よくしん(欲心)思はず。一、我事において後悔をせず。一、善悪に他をねたむ心なし。一、いづれの道にも、わかれをかなしまず。一、自他共にうらみかこつ心なし。一、れんぼ(恋慕)の道思ひよるこゝろなし。一、物毎にすき(数寄)このむ事なし。一、私宅においてのぞむ心なし。一、身ひとつに美食をこのまず。一、末々代物(しろもの)なる古き道具所持せず。一、わが身にいたり物いみする事なし。一、兵具は各(格)別、よ(余)の道具たしなまず。一、道においては、死をいとはず思ふ。一、老身に財宝所領もちゆる心なし。一、仏神は貴(とうと)し、仏神をたのまず。一、身を捨てても名利はすてず。一、常に兵法の道をはなれず。正保弐年五月十二日新免武蔵玄信
※当ブログの剣道に関する記事の、タイトル一覧はこちら