「下達」が駆逐され「上達」への道が拓かれた戦国時代
「下達」とは
論語の一節に「君子は上達す、小人は下達(かたつ)す」という言葉があります。
凡人は、とかくつまらぬことに悪達者になる。励めば励むほどかえってそういう方向に突き進んでしまう。やがて手に負えない厄介者になり、私はこんなにすごいと言って周りを睥睨(へいげい)する。実は、並以下の者でしかないのに。これが「下達」の意味なのだそうです。
私たちが生きている世間には、ありとあらゆる種類の「下達」があります。武道家には武道家の、宗教家には宗教家の下達があって、理から離れて自分勝手な空想から物事を裁断するのに忙しい。「下達」同士の争いは歴史の本体を成していると言っても過言ではないかもしれません。
下克上という思想
日本の戦国期に「下克上」というものがありました。「下克上」という言葉自体は誰もが聞いたことがあると思います。下位の者の勢力が上位の者に打ち勝つ、というような意味でとらえられるのが普通です。
具体的には、戦国期に「下克上」という考えが広がり、それが思想化していった。そして、下達する者の架空の権威や争いが、至るところで徹底して破壊されたことを言います。
その時代、小智を誇る架空の学問は破壊された。諸芸を守る家系の権威も一蹴された。政治も宗教も何もかもが叩き壊された。下達がどこでも通用しないことは、いやでも知るほかない状況が、百年以上も続いた。これは見方を変えれば大変重要なことではないかと思うのです。
後世に生きる私たちは、この出来事によってもたらされた意味に気づかなければなりません。
下達が通用しなければ、上達しかない。けれども、上達とは何で、それはどこにあるのか。
こういう問いを根本的に立てようとした人が、おそらく戦国時代には出現していたに違いありません。もちろん上達というものが通用する見込みだってない。すべてが、際限のない下克上の嵐かも知れない。血で血を洗う乱世が百年以上も続いた。人間の領域に「上達」が存在することは、この時にこそ最も強く信じられ、希求されたのではないでしょうか。
兵法における「上達」
下克上の思想から希求されたものが、まず何と言っても兵法における「上達」だったことは、至極当然のことと思われます。
戦国期を通じ、軍略はさまざまに変化せざるを得ず、武器と戦法とのありとあらゆる工夫が試されては壊された。人はこの領域で下達、停滞することは許されなかった。と同時に、上達への路もまた見いだせないままとなっていた。
このような状況の中で、剣法、刀法だけが、兵法として驚くべき独特の飛躍を生み出すことができたのです。言い換えれば、刀法は「上達」への路を突如として開き、言わば「上達」がこの世にあり得ることを証明しました。
偶然から脱し普遍原理に到達
身体運動の一般法則によって試される戦闘が、いかに一寸先も闇の偶然に委ねられているかを、少なくともこの時代の武士たちは見尽くしたに違いありません。それが彼らを圧する実感だったでしょう。
どんな下達もここでは空しい。それ故に、彼らが達しようと願ったところは、こうした一般性の外だったのではないでしょうか。
その結果、実際に彼らの一部は「剣理」に達しているのです。達した領域で「上達」が生み出された。あるいは、思想としての下克上を脱せしめる普遍的な何事かが、そこで起こった。
下達を破壊して嗤(わら)う思想は、一般化して時代の潮流を作りました。奇跡のごとく生み出された「上達」への通路は、少数者が実現する普遍原理となったのです。
兵法の「上達」はこのように顕れた
剣法、刀法において、この時代に「上達」が顕れた具体的な変化として、諸手刀法の登場というものがあります。世界の剣技が片手で行なわれるのと同様に、室町以前の日本も、太刀を片手で操作する片手保持刀法でした。そして、室町後期に諸手保持刀法が芽生え、戦国期以後はそれが全盛となる。(片手から諸手に刀法が変更された経緯は、
こちら)
変更された理由は二つしか考えられません。ひとつは、平安末期から続いてきた太刀打の動作体系が、通用しなくなったため。もうひとつは、その動作体系がある決定的な飛躍によって、新たな段階を開いたためです。
なぜ、片手で太刀を振る動作体系が通用しなくなったのか。この動作体系では、乱戦というある意味の極限状態の中で、限界を知ることになってしまった。それは、同程度に熟達した者同士の斬り合いでは、どちらがどのような理由で勝つのか、このことがわからないのです。
うっかり斬りをはずされた者、受けが間に合わなかった者、躊躇して動きが一瞬遅れた者、こういう者たちがたまたま不覚を取る。このようにして生じる勝敗は、スポーツなどでは立派な勝敗でしょうが、刀法では偶然にすぎません。いや、偶然と考え、その偶然を根底から克服しようと願うことが、刀法の探究に生きる意味だった。
「流祖」となった達人たち
戦国末期の茶の湯と刀法とは、乱世に平常心を得て生きようとする二種類の徹底した探究として成立していました。
茶の湯がそのようなものになるのに、利休という天才を要したように、刀法にもまた上泉伊勢守(新陰流流祖)のような天才が必要だったでしょう。
しかし、〈太刀打の偶然〉を超えようとした者は、むろん伊勢守だけではないし、彼が最初の人間でもない。
鎌倉中期までは片手で太刀を操作していたものを、その後、わざわざ両手で持ち、あえて我が身を相手にさらすような刀法に変更したのは何のためだったのでしょうか。確実に言えることは、身体と刀との相関関係を大きく変えうる何かに、彼らが到達したということです。
片手刀法は、刀は振られる腕の延長であり単なる武器に過ぎず、それ以上でもなければそれ以下でもない。一方、両手保持の諸手刀法はそうではありません。腕は刀ではなく、刀は腕ではない。刀は決して腕で振ってはならない。体全体の軸移動の中に法があるのです。
この運動は、身体のすべてと刀との厳格で複合的な結合によって出来ています。この結合の形式は、当然我と敵との間の関係の性質を変えます。
こうした事を、実地の経験において考え抜き、答えを引き出した人間が幾人かいた。彼らはそうやって「流祖」となったわけです。
その「流祖」たちが到達した刀法の共通した剣理が「刀身一如」でした。(刀身一如の大原則とは、
こちら)
武蔵の片手刀法は「下達」なのか
宮本武蔵は、この戦国流祖たちが世を去ったころに生を受けました。
戦国期の流祖たちが具現化し到達したそれぞれの剣の法を、ひとつの思想問題として決着させようとした人物、それが宮本武蔵です。
武蔵は、著書『五輪書』の中で、太刀は片手で振るものだと言っている。二刀を執る理由は、片手刀法の修練のためだと。
では、武蔵は、刀身一如の原則を否定したのでしょうか。いえ、武蔵は単なる片手刀法への回帰を謳ったのではありません。彼の二刀は、戦国流祖たちがもたらした深い革新である刀身一如の大原則を極めて厳密に受け継いでいます。
武蔵が言うように、二刀を用いて稽古することは、その受け継いだ運動感覚を一層鋭く、自由なものに研ぎ上げるための手段にほかならなかったのです。
誰もが、勝負の馬鹿げた運で死にたくはない。では、何を知り、何に熟達することが、この偶然の底なしの闇に勝つことなのか。武蔵は戦国武士が強いられたこの課題を、乱世が収束した時代にやって来て、たった一人で思索せざるを得なかった。彼は歴史の中に、そんな具合に生まれついた人なのです。
上達の至極「実の道」
宮本武蔵は、剣の理法が、またそのための稽古が、そのまま生きる目的や理由になりうることを、「実(まこと)の道」という真に普遍的な思想によって明るみに出しました。
武蔵は、およそ技術を持ち道具を用いて生きていく人間のあいだに無数の度合いで存在する、ある語りがたい働きの総体を「実の道」と呼んでいた。(「実の道」に関する記述は、
こちら)
「実の道」は、人をも物をも活かしきる道で、何かを殺すことによって成り立つ道ではありません。兵法者は人を斬るのではなく、斬らなくてはならない事態に、常にあらかじめ「勝つ」人でなければならない。これが武蔵の兵法思想です。
兵法は手技から出発しますが、手技のひとつであることをはるかに超えていきます。超えていくがゆえに、すべての手技に貫通する道を知ることができる。物を活かす道そのものを観ることができるのです。兵法の目的は実にここにこそあるのだと、晩年の武蔵は確信していたようです。
下克上という戦国期の武士たちにもたらした探究が、ここに帰結しているのです。
上達の至極「実の道」を体得した者が、どんな心持ちであるか。この稿の最後に、武蔵の言葉を引かせていただきます。
兵法の道におゐて、心の持ちやうは、常の心に替わる事なかれ。常にも、兵法の時にも、少しもかはらずして、心を広く直(すぐ)にして、きつくひつぱらず、少しもたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中におきて、心を静かにゆるがせて、其(その)ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々(よくよく)吟味(ぎんみ)すべし。静かなる時も心は静かならず、何とはやき時も心は少しもはやからず、心は躰(たい)につれず、躰は心につれず、心に用心して、身には用心をせず、心のたらぬ事なくして、心を少しもあまらせず、うへの心はよはくとも、そこの心をつよく、心を人に見わけられざるようにして、小身(しょうしん)なるものは心に大きなる事を残らずしり、大身(たいしん)なるものは心にちいさき事を能(よ)くしりて、大身も小身も、心を直(すぐ)にして、我身のひいきをせざるやうに心をもつ事肝要(かんよう)也。心の内にごらず、広くして、ひろき所へ智恵(ちえ)を置くべき也。智恵も心もひたとみがく事専(せん)也。(『五輪書』水之巻より)
引用・参考文献
『剣の思想』甲野善紀 前田英樹 往復書簡 青土社 2013年
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