2019年4月30日火曜日

リバ剣 息子と稽古③ 一足一刀

「一足一刀」で打つために


さかのぼってやり直す


 前回の投稿で、2010(平成22)年8月当時の息子の剣道の現状について書きました。
 小1から剣道を始めた息子は当時小4。正しい剣道を伝えるためには、“正しくない”ところまでさかのぼってやり直すしかありません。息子との稽古はそこから始めました。

 まずは、「提げ刀」の姿勢から。次に、立礼の仕方。帯刀とは何か。そして蹲踞の仕方。初心者に教えることを一つ一つやり直す。私の真剣さに気づいたのか、息子も真剣にやってました。普段は友達みたいな“お父さん”も「剣道」となると別人だと思ったでしょうね。
 まあ、このへんまではすぐに矯正可能ですよね。息子も難なくできるようになった。問題は次、足さばき。

「一足一刀」で打てる“足さばき”


 剣道の入門書や稽古法の解説書など、“足さばき”についてはそれぞれの方法が書かれています。
 剣道の足さばきは“すり足”です。そこから、“送り足”と“歩み足”に大別されます。どちらも剣道に必要な足さばきです。
 私が子供の頃(昭和40年代)は、二足一刀など歩み足での刀法も習いましたが、最近は古流の道場にでも行かない限り、歩み足での刀法を習うことはなくなってしまいました。
 ですから、現在出版されている剣道の入門書などからは、歩み足に関する記述はほぼ、なくなってしまっています。(歩み足の刀法については、こちら
 
 そういった経緯は別にして、現代の剣道の入門書などには、最も大事な送り足の「目的」が書かれていない。なぜ、そういう“足さばき”をしなければならないのか。

 “送り足”を身に付ける目的は、攻め込みそして「一足一刀」で打つために、です。
 
 息子の場合、「一足一刀」で打つという目的のために、足さばきで直さなければならない点は三つ。

  1.  一つは撞木足(しゅもくあし)。構えた時に、左足のつま先が大きく外側を向いていました。「かかとを外側に持っていくような気持で」と指導したら、すぐに直りました。でも、しばらくすれば元に戻ります。これは、腰の遣い方がなってないから。
  2.  二つ目はその腰の遣い方。腰を左に開いて構えている。いわゆる「腰が入っていない」という状態。右足前、左足後ろにして立てば、腰は自然にやや左に開きます。これを「腰が入っている」状態にするためには、背骨を軸にして骨盤をわずかに右に回転させた状態で止める。すると腰の“開き”が矯正され身体を相手に正対させることができます。「腰を入れた」ことによって、撞木足に戻らなくなりました。
  3.  三つ目は、いざ打つとなると左足を継いでから右足を踏み出して打っているということ。ひどい時は、右足を追い越して左足を一旦前に出してから、右足を踏み出している。「二足一刀」になっちゃってるんです。構えた状態から左足を継がずに、そのまま右足を前に出して打つ。できない人にとっては簡単なことではないんですね、これが。息子は、この癖が完全に直るまでに、数年かかりました。

 この三つの点は、大人でもできていない人が多いですね。安易な稽古をしていると陥りやすいところです。私も肝に銘じています。 

「一足一刀」で打てる“構え”


 「そんな構えで打てるのか」

 息子と初めて剣を交えた時に、私が言った言葉です。
 “構え”は構えるためのものではなく、打つ(斬る)ためのものです。ここでも目的をはっきりさせなければなりません。

 “正しい構え”が形(かたち)だけのものであっては、意味がありません。身体の運用が正しくできている結果として、正しく構えられているのでなければなりません。
 一見、正しく構えているようでも、いざ打ってみると腰が開いてしまうっていう人よく見ますよね。身体の運用法が違っちゃってるんですね。腰の遣い方が違うんです。

 明治維新以前の日本人が「ナンバ歩き」という歩き方(または走り方)をしていたころは特段気にすることはなかったでしょう。(ナンバ歩きについては、こちら
 維新後、西洋化が進み、服装や歩き方も変化した。すると、剣道や、能、狂言、茶道などに見られる日本古来の歩き方をするには、正しい知識が必要になってしまった。
 日本古来の武芸は、当時の日本人が“常の歩き方”としていた「ナンバ歩き」を土台にして出来上がっているといっても過言ではありません。

 私が子供の頃は、こういったことを「腰をいれろ!」という表現で教えられました。腰が開いていれば、竹刀で腰のあたりを思いっきり叩かれる。体で覚えさせられたわけです。

 現在では「腰を入れろ」と言っている指導者はあまり見かけないですよね。ですから、腰が開いている子供を見ても放置しっぱなし。大人たちが、「腰を入れる」とはどういうことなのかわからないのです。たいていそういう場合は、その指導者自身が腰が開いていますよね。

 背骨を軸にして骨盤を右に回転させるようにして左足で蹴り、右足を前へ出す。「腰を入れる」の正体です。
 このような腰の遣い方をすれば、打った後の左足の引付けは自然とできます。引付けようと思わなくても引付けられるのです。そういう身体の運用法なのです。

 このように打てるようになれば、自然と腰の入った正しい構えになります。
 

「一つ拍子」で打つ


 正しい足さばきができ、腰を入れて打つことができるようになれば、「一つ拍子」で打てるようにします。教えなくても最初から「一つ拍子」で打つ子供もいます。息子は完全な「二つ拍子」。しかも、「これの何がいけないんだ」って言ってました。違いがわからないんですね。笑

 構えた状態からいざ打とうとすると、竹刀を振りかぶるのと同時に左足を継ぐ、そこで一度拍子をとりますから、竹刀の動きは頭上で一瞬止まります。次に竹刀を振り下ろしながら、右足を前へ出して打ちます。大きく打った場合の「二つ拍子」です。
 小さく打っても同じ。打つ前に左足が動きます。継いだり、構え直したりするのです。ここで拍子をとってますから、小さく打っても「二つ拍子」になっているのです。

 これは、大人でも直せない人はたくさんいます。「二つ拍子」である自覚がないんですね。
 しかし、子供の場合は必ず直ります。素直ですから自覚がなくても正しく伝えれば、できるようになります。

 私の息子ですか?
 かなりてこずりましたけどね。あることをきっかけに、“開眼”しました。笑
 次回に書きます。


2019年4月28日日曜日

リバ剣 息子と稽古② 「竹刀は刀」「一つ拍子」

大刀を腰に帯びるということ


子供であっても武士


 前回の投稿で、2010(平成22)年8月にリバ剣後初めて息子(当時、小4)と稽古した時、スポーツ化した現代の剣道に失望したことを書きました。私が子供の頃に、古流の裏付けのある剣道を学んだ経験を息子に伝えようと決めた。

 「竹刀は刀です。大刀を腰に帯びるということは、子供であっても一人前の武士ということ。子供扱いは一切しません。それがいやだったら、入会しないでください」

 1972(昭和47)年4月。小学2年生だった私が中山剣友会(現:市川市剣道連盟東部支部)に入会するにあたり、母親と一緒に受けた先生の説明です。(その道場についてはこちら
 帯刀するということ、大刀を扱うということ、それが竹刀であってもその覚悟を最初から求められたのです。

 この時点で現在の教え方とだいぶ違うんじゃないでしょうか。
 当時はそういう厳しさを子供たちに求めた一方で、大人たち、自分たちにもそれ以上の厳しさを課していたと思います。

 現在は、子供たちには厳しく指導しても、自分自身の稽古はあまりしないなんていう指導者がよくいますよね。子供たちを指導することだけが自分の"剣道"になっちゃってる人。そんな人は昔はいませんでした。自分はろくに稽古せずに子供たちを指導するなんてあり得ないことです。子供たちは皆、先生が苛酷な稽古をする後ろ姿を見て、自分たちもその厳しさに挑んでいったのです。

 自分の稽古をしっかりやらない人がどんなに厳しい指導をしても、子供たちはどこまでいっても「やらされ感覚」。自ら厳しさを求めようという心が養われているかどうか疑問ですね。

 そういった意味では、昭和の時代の道場は「子供にも厳しかったが、それ以上に大人が自分自身に対して厳しかった」と言えるんじゃないでしょうか。

まずは大人が自分を律し、厳しい稽古に挑むこと


 息子に剣道を「伝える」上で、まずはそこから始めました。
 できもしない、やりもしない人に誰がついていくでしょうか。そりゃあ、うわべだけは言うことを聞き、ついていくふりはしますよね。でも、それでは意味がない。剣道に限らず、息子に身につけてほしいのは、物事の形(かたち)ではなく本質です。
 
 物事の"本質"を見抜く力を養ってもらいたい。そのためには、「これが大人の稽古だ」という稽古を子供に見せること。もう、ここから息子との"真剣勝負"が始まったと思いました。
 大刀(竹刀)を腰に帯びるということは、他人に求める以上のものを自分に課すこと。わが身を律する修行だと思っています。

立ち姿で習った剣道がわかる


 リバ剣して子供たちと稽古するようになり、元立ちするようになって気づいたことですが、立礼をする前のお互いに向かい合った時の立ち姿で、その子がどんな剣道を習ったかが分かる。
 正しい基本を習っているかどうか。厳しい稽古をしているかどうか。そういうことが“立ち姿”から見て取れるのです。

 息子の立ち姿は、着装はまあきちんとできているが、「提げ刀」の仕方が適当。両足のかかとをつけずに立っている。体が静止していない。そんな状態から、立礼をしようとしている。
 初めて私が元に立ち、当時小学4年生の息子がその列にならび、順番がきて向かい合った時、正しい基本が身に付いていないことは一目瞭然でした。

息子の構え


目に留まったのは、撞木足(しゅもくあし)。
 中段に構えた時の左足のつま先が、大きく外側にむいているのです。

 撞木足であるということは、相手に正対していないということ。腰を開いて構えているわけです。
 こういう構えをしていれば、当然、腰が入らない。自分の正中線で刀を振ることができない。正しい打突の姿勢をとることができない。切っ先も自然に中心からは外れてしまいます。

 余談ですが、撞木足はアキレス腱断裂になりやすいという人もいます。

「一つ拍子」の打ち 


 最近は、1拍子(いちびょうし)という剣道家が多いようですが、私は本来の言い方である「一つ拍子」(ひとつびょうし)と言うことにします。

 初太刀で面を打ってきた息子。「二つ拍子」(ふたつびょうし)になっているんですね。
 これは致命的。まさに戦国時代であれば「二つ拍子」であることによって、相手に機を与え、命を落とすことになりかねない。

 大きく振りかぶって打つか、小さく鋭く打つかで、考えている方もいますがそうではありません。大きく振りかぶっても「一つ拍子」で打てますし、小さく鋭く打っても「二つ拍子」になってしまう人もいます。動作の大きさや、速さではないのです。もちろん、音楽用語としての“リズム”とは違います。

 その時の息子の打ち方は、面を打ってきた時に「いち、に」と打っている。「いち」で竹刀を振り上げ、「に」で振り下ろす。「いち」で振り上げた時に一度拍子をとっているんですね。だから振り下ろす時に「に」になってしまう。大きく振りかぶっても、小さく振りかぶらずに打っても同じこと。「二つ拍子」は「二つ拍子」です。

 「二つ拍子」でしか打てない、ということは、上達の妨げになるのです。
 
 剣道には、相手と自分のかかわりの中で成立する「理合」というものがあります。この理合を体現することは、稽古の重要な要素の一つです。

 「一つ拍子」で打つということは、理合を体現するための“前提”になります。「一つ拍子」で打てるようになってはじめて物毎(ものごと)の拍子がとれるようになる。独りよがりではない、相手と自分の運動世界がつくれるようになるのです。 

 「二つ拍子」で打っている人に、「一つ拍子」で打て、と言っても簡単に理解してもらえるものではありません。本人が「二つ拍子」で打っているという自覚がありませんから。

息子と私の稽古。まあ、こんなところからの出発でした。


2019年4月27日土曜日

リバ剣 息子と稽古① 原点に返る

剣道の伝え方


ウソはつけない


 2010(平成22)年8月。リバ剣して初めて息子と稽古したことを、前回の投稿で書きました。
 当時、小学4年だった息子。剣道を始めて4年目でしたが、基本が全くと言っていいほど身についていませんでした。

 小学生の指導は道場の指導者の先生方がいらっしゃいますので、基本的にはそちらに全てお任せしていました。
 しかし、一般の方の稽古に参加してきて、私のところに稽古をお願いしてきた子供には、正しい剣道を教えようと決めた。

 私にその決心をさせたのは、子供たちの"目"です。(その経緯はこちら

 「子供たちにウソは教えられない。本当のことを教えよう」

 そして、息子の"現状"がその気持ちを後押ししたのです。

古流は剣道の“親”


 私が小学生だった、昭和40年代後半。剣道の道場では大正生まれの先生方が元立ちに立たれていました。(その様子はこちら
 戦前から剣道をされていた方々ですから、当然、古流のいずれかの流派に属している方々です。「剣道家」は「古流」というバックボーンを持っていたのです。

 ご存知の通り、「剣道」とは、明治期に古流の剣術諸流派を統合したものです。「剣道」の源流は古流。いわば剣道の“親”です。
 剣道の“親”である「古流」を学べば、「剣道」が鮮明に浮かび上がってくる。現在の剣道で教えられている動作の一つ一つの“意味”が明確になり、何をどう「稽古」すればよいかを知ることが出来るわけです。

スポーツ化してしまった剣道


 私が30年ぶりに剣道を再開して一番驚いたことは、「剣道がスポーツ化している」ということです。

 スポーツという概念が日本に定着したのは昭和になってから。言うまでもなく、西洋から入ってきたものです。
 一方、剣道の源流である剣術諸流派(古流)の起こりは、平安後期から、鎌倉、戦国、江戸前期にかけて。

 剣道は数百年前に日本で生まれたその剣術諸流派(古流)を起源とする武道です。日本にスポーツという概念が入ってくるはるか前からあるわけです。

 その剣道を、戦後、スポーツの一種目としてそのカテゴリーに組み込んでしまった。
 それは、致し方ないことなのかもしれませんが、剣道の「スポーツ化」がここから始まったのは間違いありません。朱に交われば赤くなる、のことわざ通りです。

 そして、昭和の時代が終わるころ、古流というバックボーンを持った大正生まれの剣道家たちが世を去りました。

真実を伝える責務


 私の年代は、そういった大正期生まれの剣道家に、道場で剣道を習った最後の世代ということになります。
 当時を知る者はそれ故に、現在の剣道とのギャップに憂苦している方も多いのではないでしょうか。

 皆さんも、当時の教え方と現在の教え方が違うということは、これでなんとなく想像できると思います。
 教え方の“違い”があるのは、ある意味当然です。重要なのは、それで「正しい剣道」が伝わっているかどうかなのです。

 現在のスポーツ化した剣道で「正しさ」が伝わっているかどうか。甚だ疑問ですね。残念なことに。
 具体的な例を挙げて、揚げ足取りをするのはやめておきます。意味がありませんから。

 子供たちのあの“素直な目”は、いつも真実と理を求めているような気がしてならないのです。
 
 「もうこれ以上、しらばっくれるわけにはいかない」

 息子とともに、原点に返って稽古すると決めた。

 
 (「剣道のスポーツ化」についてはこちらのコラムをご覧ください)

2019年4月25日木曜日

リバ剣 日常の稽古④ 息子と初めての稽古

息子の変化


私のリバ剣が影響?


 2010(平成22)年1月に私がリバ剣した時には、息子は大変喜んでおりました。

 「息子さんの剣道が、急に変わりましたよ」

 毎回子供の付き添いで稽古の見学をしていたある保護者の方が、教えてくれた。

 それまでの息子の稽古の仕方は、まあ言ってみればチャランポラン。笑
 そんな態度で剣道をやっているのは息子だけ。妻は、それを見ていて恥ずかしかったと言っていました。

 それが、私がリバ剣して道場に通うようになったら、表情が変わり、気合が変わり、打ちが変わり、態度が変わったそうです。
 私は息子に注意したり、教えたりしていないのです。私は子供にとって"怖いお父さん"でもありません。

 その保護者の方曰く、「お父さんの稽古をする姿を見て、何か感じたんですね」

 私の“リバ剣”が、とりあえず息子には“影響”があったらしいです。笑

息子と稽古


 前回の投稿で、二段に昇段して一刀での稽古を解禁し、初めて子供たちと稽古したことについて書きました。2010(平成22)年の8月のことです。

 その中で、息子(当時、小4)との初めての稽古もかないました。その時息子は剣道を始めて4年目。

 私はリバ剣して以来、二刀でしか稽古しておらず、この日、一刀での稽古を解禁して、初めて小学生と稽古することに。
 最初は約束通りFJT君と。(その理由はこちら
 二番目に稽古したのが息子でした。

 お互いに向き合って立礼し、中段に構えて蹲踞の姿勢から立ち上がった。

 「これは、手入れをしていない盆栽と同じだな」

 息子の構えを見るなりそう思った。

 私は休日になると、美術館に行ったりすることがあります。最近は、盆栽展にも行くようになった。特に専門的な知識は何もありません。それらの鑑賞が好きなだけ。
 盆栽も、人間が愛情をもって“手入れ”をしてはじめて「盆栽」なのです。手入れをしなければ、ただの雑木です。

 「今まで申し訳ないことをしてしまった」

 そういう思いに駆られました。

 私が剣道経験者なのにそういうことを見てあげてなかった。
 リバ剣してからも、自分の稽古に夢中で、息子の剣道を見る余裕すらなかった。

 この時点で息子は「正しい基本」が身についていなかったのです。
 
 この日から、息子との"長い稽古"が始まった。この6年後、私が「急性リンパ性白血病」と診断されるまで。


2019年4月24日水曜日

リバ剣 日常の稽古③ 一刀解禁 子供たちと稽古

信念貫き、結果を出す


一刀解禁


 2010(平成22)年1月。浦安の道場でリバ剣直後に、「二刀で何らかの結果を出すまで一刀では稽古しない」と決意。(その経緯はこちら
 
 それは、子供たちとは稽古できないということを意味します。

 「FJT君がお父さんと稽古したいんだって」

 私よりも先にこの道場で剣道を始めていた息子(当時、小3)が私に言ってきた。
 しかし、その時は断るしかなく、FJT君(当時、小5)に、今は子供たちと稽古できないことを直接伝えた。(その様子はこちら

 「いつになったら、お父さんと稽古できるの」

 その後、息子にもこう聞かれてしまった。

 2010(平成22)年8月。二段の昇段審査を二刀で受審すると決め、これに合格すれば一刀での稽古を解禁しようと決めた。(その様子はこちら

 そして、二段合格。(その記事はこちら
 二刀で二段を受審し合格というのは、聞いたことがありませんし、そもそも二段を二刀で受審しようという人はいません。なので、これは「戦後初」なのではないかと、ひそかに思ってます。笑

 これでようやく、あの約束が果たせる。

最初は約束通りFJT君と


 「一緒に稽古できるようになったら、一番最初にやろうね」

 FJT君との約束です。

 二段を取得して、最初の浦安の道場での稽古。
 いつもは、竹刀袋には二刀用の大小を2本ずつ入れていましたが、この日は一刀用の竹刀(3.9 520g)1本も入れてきた。

 小学生の稽古が終わり、一般の稽古が始まる。
 意欲のある子供は、大人の稽古にも参加していいことになっている。
 小学6年になったF君と、4年になった息子の姿もあった。

 本当に最初に稽古してもらえるのか心配だったんでしょうね。FJT君が不安そうな顔をしてた。

 「FJT君、稽古しよう!」

 FJT君に歩み寄って声をかけた。すると、すぐにうなずいてニッコリ。
 待っていてくれたんですね。一緒に稽古してあげられない間、申し訳ない気持ちでいっぱいだったので、私も胸にジーンときてしまった。

 一人5分ぐらいの地稽古。この日は5人の小学生と一刀で稽古した後、大人と二刀を執って稽古しました。

子供たちのまなざし


 私にとって、子供たちとの稽古は初めてのこと。
 最初に稽古したFJT君は、この道場の小学生の中では一番強い子。よく打たれました。笑
 自分が小学生だった時に、先生方がどう稽古をつけてくださったか、思い出しながらやりました。まだまだ、上手な「元立ち」じゃなかったと思います。子供との稽古の中で、自分自身も上達しなければならないと、改めて思った。

 稽古中、子供たちの、ある共通点に気づいて感動してしまったんです。
 それは、子供たちの“目”。
 とても素直で、きらきらと輝いた、真剣なまなざし。
 そのまなざしで、無心で打ち込んでくる。

 「自分も子供の頃、こういう目をして剣道をやっていたのかもしれない」

 「子供と相対する時も、真剣に稽古しよう。学ばなければならないのは、大人のほうだ」

 打たれたのは“心”でした。
 

2019年4月23日火曜日

市川市剣道連盟東部支部(旧中山剣友会)④ "二刀の聖地"で稽古

私にとっての二刀の"聖地"


"語り部"の高齢化


 特にここが、二刀者が集まる道場だったわけではありません。二刀を執っていた方は、故松崎幹三郎先生ただおひとり。圧倒的だったのはその存在感と、素晴らしい稽古内容。それについては、前回の投稿で少し触れました。

 現在、私が市川市周辺の道場に出稽古に行くと、「キミの二刀は市川東部の松崎先生に習ったのか」と、年配の先生方から声をかけられることがあります。続けて松崎先生との立会の思い出を、目をキラキラ輝かせながら話してくださる。

 「こんなにたくさんの方々の記憶に鮮明に残っているんだな」

 そういうお話をして下さるのは皆さん一刀者。そのお話で共通することは、松崎先生の二刀に「理」を感じた、ということ。大変貴重な内容です。
 
 現在(平成31年)、もし故松崎幹三郎先生がご存命ならば100歳前後。松崎先生と剣を交えた方々もご高齢になりつつあります。そういう方々に、今の私が稽古を頂き当時のお話を聞かせて頂けることはこの上ない喜びです。
 市川東部のUEKS先生はその中では最年少の60代後半。しかも、最も数多く松崎先生と立合されたお方。(UEKS先生については前回の投稿をご覧ください)

 小学生の頃に、その立会いの多くを目撃している私が、この日、UEKS先生と34年ぶりに再会し、二刀を執って稽古させて頂くことができた。

“聖地”で稽古開始


 前回の投稿からの続き。2010(平成22)年晩夏、とある日曜日。
 34年ぶりに出身道場へ稽古に来て、当時の小学生たちの憧れのUEKS先生と再会した。

 私の中では永遠の青年だったUEKS先生が還暦を過ぎたという。
 こんなにも長く剣道から遠ざかってしまっていたことを後悔しましたね。この道場に何一つ恩返しできていない。申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。

 二刀を執って剣道を再開したと伝えると、話はすぐに松崎先生の思い出話に。貴重なお話をたくさんしてくださった。その内容は、回を改めて。

 稽古が始まり、OIKW先輩が最初に声をかけて下さった。

 「二刀でやろうよ」

 私が躊躇なく二刀でやれるよう、気を遣ってくださってのことなんです。そういう優しい方なんですOIKW先輩は。

 元立ちのOIKW先輩に、二刀を執って稽古をお願いした。
 OIKW先輩の正眼の構えを見て、すぐに思い出した。

 「OIKW先輩は左利きだったな」
 
 構えというのは非常に個性が出るもので、構えに“面影”がある。
 OIKW先輩は晩年の松崎先生と稽古している方だ。やはり対二刀は慣れているとあって、なかなか打たせてもらえない。駆け出しの二刀では歯が立ちません。大変勉強になりました。

子供の頃の夢が現実に


 この10カ月前にリバ剣を決意した時、最初に夢に思い描いたのが「市川東部で二刀をやること」そして「UEKS先生と稽古すること」。
 この夢はそもそも小学生3年の時に、ここで松崎先生とUEKS先生の稽古を見て将来の目標としたものです。(その様子はこちら

 この8カ月前に浦安の道場でリバ剣し、そして二天一流武蔵会の門をたたき、二段の昇段審査に二刀で合格し、ついに市川東部へたどり着いた。
 そして今、九歩の間合いでUEKS先生が目の前に立っている。私は左手に二刀(大小)を提げて。
 
 稽古中は夢心地でした。まさか本当に実現するなんて。リバ剣を決意して本当によかった。人生の不思議を味わいながら、UEKS先生と剣先で"会話"をした。

 私の二刀はまだまだUEKS先生には通用しませんでしたが、本当に楽しいひと時でした。

新たな目標


 子供の頃、初めて故松崎幹三郎先生の二刀流を見たとき、私は興奮して三日間眠れなくなってしまった。

 今度は、「私の二刀を見た子供たちが、眠れなくなるような二刀をやる」。
 それが新たな目標になりました。

 稽古の後、満面の笑みでUEKS先生がこうおっしゃってくれた。

 「まるで松崎先生と稽古しているようだったよ」

 もったいないお言葉です。
 

市川市剣道連盟東部支部(旧中山剣友会)③ 目に焼き付いた「組み討ち稽古」

変わらない"音"


少年時代にタイムスリップ


 2010(平成22)年の夏が終わるころ、34年ぶりに子供の頃に通った道場に挨拶に行ったことを前回の投稿で書きました。

 その翌日の日曜日。早速、防具を担いで市川東部に稽古に行った。
 到着すると、すでに到着していたOIKW先輩が体育館の入り口で出迎えてくれた。OIKW先輩も私が稽古に来ることを心待ちにしていてくれたらしい。
 先日、市川東部に来るように声をかけて下さったTNK先生は、残念ながらこの日はお見えになられていませんでした。(TNK先生についてはこちら
 
 小学生の稽古はすでに始まっていて、参加は昨日と同じ10名程度。これで全員だそうだ。寂しさを感じずにはいられませんでしたね。何しろ、私が小学生の頃は、ここで200名の子供たちが稽古していたんですから。

 「ああ、私が聞いていたのはこの音だ」

 しかし、変わっていないものもありました。
 竹刀の"音"です。竹刀と竹刀が当たる音。竹刀で防具を打つ音。

 この"音"については、それまで気にすることは特にありませんでした。
 それが34年ぶりにこの道場に戻ってきて、"音"の違いに気づいた。施設によって音の反響の仕方が微妙に違うということを、この時初めて知ったのです。
 私にとっての剣道の"音"はこの音なんですね。本当に懐かしい。
 ワクワクして、緊張する、それでいて心地いい"音"。

 「帰って来たんだな」と思いました。

 この日の一般の稽古の参加者は私以外に6名だったと思います。
 大人の参加も毎回これくらいの人数だそう。もう、二刀を執っている方もいないそうだ。
 この中で、OIKW先輩以外にもう一方、34年ぶりの再会となった方がいらっしゃいました。

二刀流 故松崎幹三郎先生とUEKS先生の「組み討ち稽古」


 私が小学生だった昭和40年代後半から50年代にかけてのこと。
 私淑する故松崎幹三郎先生(二刀流)と毎週木曜日に稽古していたNGSK先生のことを、以前に記事にさせて頂いたことがある。(その記事はこちら
 実は、もう一人、松崎先生が木曜日に毎回稽古された方がいらっしゃる。というより、松崎先生(当時50歳ぐらい)が必ず稽古相手に“指名”する方がいた。UEKS先生(当時20代半ば)。


 昭和40年代後半のとある木曜日、午後8時。小学生の私が稽古を終えて、帰り支度をしているころになると、松崎先生が防具を担いで道場に入ってくる。道場全体が緊張感につつまれる瞬間だ。
 すでに面、小手以外の着装を済ませて、準備運動をしているU先生の表情からは笑顔が消え、集中モードに入ったのが分かる。
 他の小学生たちは家路につく中、私は道場の隅で、これから始まる稽古を目に焼き付けようとしている。

 稽古が始まった。元立ちの松崎先生が大小を抜刀して蹲踞し中段十字に構え、同時に掛かり手のUEKS先生が一刀中段に構えた。
 立ち上がると同時に、正二刀の松崎先生が小刀は中段のまま大刀を上段に構えた。二刀の代表的な構え「上下太刀」。UEKS先生は正眼の構え。二人の気合が道場に響く。松崎先生は“歩み足”。UEKS先生は“送り足”。お互いに間合いを詰める。
 “石火の機”に二人が動いた。
 初太刀はUEKS先生の面と思いきや、そこへ松崎先生が“流水の打ち”をかぶせて豪快な出ばな面で初太刀を取った。道場に打突音が響き渡る。
 なおも前へ出てくるUEKS先生の剣尖を小刀で表から押さえ、それに反発して剣尖を中心に戻そうとする刹那を大刀で小手をバックリ。
 今度は起死回生に先々の気概で飛び込んだUEKS先生の面打ちを、小刀で受けると同時に大刀で胴を抜いた。胴が割れるかと思うようなものすごい迫力。それでいてすべての動きが華麗で美しい。まるで踊りを踊っているよう。しかも圧倒的に強い。松崎先生の二刀の特徴だ。
 「いや、まだまだっ!」
 UEKS先生も、参りましたとは言わない。“最強の二刀流”に一刀で真正面から挑み続ける。二刀と一刀、明らかに条件が違う。スポーツだったらありえない、日本古来の武道であればこそ。その戦いぶりに見ている者皆心を打たれた。
 時計の針はすでに午後9時を回っている。二人で1時間以上ぶっ通しで稽古しているのだ。もう稽古というより“死闘”だ。
 片手で竹刀を振り続け握力が低下してきた松崎先生が、UEKS先生の体当たりを受けて右手に持った大刀を落とした。すかさず“入り身”になった松崎先生は、UEKS先生の竹刀を奪おうとその柄に手をかけた。
 UEKS先生は竹刀を奪われまいと両手に力を入れて握った瞬間、腰が浮いてしまった。そこを逃さず、松崎先生がUEKS先生に足払いをかけた。もつれて倒れ込む二人。「組み討ち稽古」の始まりだ。
 「組み討ち稽古」は面を外されるか、「参った」と言ったら負け。二人とももう竹刀は持っていない。床に転げて組み合うこと数分。松崎先生がUEKS先生の体をキメて面を外した。
 息が上がる二人。とっくに体力の限界は超えている。それでも立ち上がって、落とした竹刀を拾い、九歩の間合いをとって静かに正座した。組み討ち稽古で乱れた着装を整える。UEKS先生は外された面を着け直した。
 立ち上がって、立礼から互いに抜刀し、UEKS先生が気力を振り絞って気合もろとも打ち込んだ。稽古の締めの「切り返し」だ。こうして1時間以上続いたの二人の稽古は終了した。
 
 見ている私たちは感動しかありません。こういう「稽古」を毎週されていたのです。忘れられるはずがありません。攻め込む時の松崎先生の足の指の動きまで、鮮明に覚えています。

 
 今回、このUEKS先生に再会することができた。二刀流 松崎幹三郎先生の“生き証人”です。
 
 

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宮本武蔵『独行道』「我事に於て後悔せず」を考察する

後悔などしないという意味ではない 布袋観闘鶏図 宮本武蔵 後悔と反省  行なったことに対して後から悔んだり、言動を振り返って考えを改めようと思うこと。凡人の私には、毎日の習慣のように染み付いてしまっています。考えてみれば、この「習慣」は物心がついた頃から今までずっと繰り返してきた...

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