2019年4月24日水曜日

リバ剣 日常の稽古③ 一刀解禁 子供たちと稽古

信念貫き、結果を出す


一刀解禁


 2010(平成22)年1月。浦安の道場でリバ剣直後に、「二刀で何らかの結果を出すまで一刀では稽古しない」と決意。(その経緯はこちら
 
 それは、子供たちとは稽古できないということを意味します。

 「FJT君がお父さんと稽古したいんだって」

 私よりも先にこの道場で剣道を始めていた息子(当時、小3)が私に言ってきた。
 しかし、その時は断るしかなく、FJT君(当時、小5)に、今は子供たちと稽古できないことを直接伝えた。(その様子はこちら

 「いつになったら、お父さんと稽古できるの」

 その後、息子にもこう聞かれてしまった。

 2010(平成22)年8月。二段の昇段審査を二刀で受審すると決め、これに合格すれば一刀での稽古を解禁しようと決めた。(その様子はこちら

 そして、二段合格。(その記事はこちら
 二刀で二段を受審し合格というのは、聞いたことがありませんし、そもそも二段を二刀で受審しようという人はいません。なので、これは「戦後初」なのではないかと、ひそかに思ってます。笑

 これでようやく、あの約束が果たせる。

最初は約束通りFJT君と


 「一緒に稽古できるようになったら、一番最初にやろうね」

 FJT君との約束です。

 二段を取得して、最初の浦安の道場での稽古。
 いつもは、竹刀袋には二刀用の大小を2本ずつ入れていましたが、この日は一刀用の竹刀(3.9 520g)1本も入れてきた。

 小学生の稽古が終わり、一般の稽古が始まる。
 意欲のある子供は、大人の稽古にも参加していいことになっている。
 小学6年になったF君と、4年になった息子の姿もあった。

 本当に最初に稽古してもらえるのか心配だったんでしょうね。FJT君が不安そうな顔をしてた。

 「FJT君、稽古しよう!」

 FJT君に歩み寄って声をかけた。すると、すぐにうなずいてニッコリ。
 待っていてくれたんですね。一緒に稽古してあげられない間、申し訳ない気持ちでいっぱいだったので、私も胸にジーンときてしまった。

 一人5分ぐらいの地稽古。この日は5人の小学生と一刀で稽古した後、大人と二刀を執って稽古しました。

子供たちのまなざし


 私にとって、子供たちとの稽古は初めてのこと。
 最初に稽古したFJT君は、この道場の小学生の中では一番強い子。よく打たれました。笑
 自分が小学生だった時に、先生方がどう稽古をつけてくださったか、思い出しながらやりました。まだまだ、上手な「元立ち」じゃなかったと思います。子供との稽古の中で、自分自身も上達しなければならないと、改めて思った。

 稽古中、子供たちの、ある共通点に気づいて感動してしまったんです。
 それは、子供たちの“目”。
 とても素直で、きらきらと輝いた、真剣なまなざし。
 そのまなざしで、無心で打ち込んでくる。

 「自分も子供の頃、こういう目をして剣道をやっていたのかもしれない」

 「子供と相対する時も、真剣に稽古しよう。学ばなければならないのは、大人のほうだ」

 打たれたのは“心”でした。
 

2019年4月23日火曜日

市川市剣道連盟東部支部(旧中山剣友会)④ "二刀の聖地"で稽古

私にとっての二刀の"聖地"


"語り部"の高齢化


 特にここが、二刀者が集まる道場だったわけではありません。二刀を執っていた方は、故松崎幹三郎先生ただおひとり。圧倒的だったのはその存在感と、素晴らしい稽古内容。それについては、前回の投稿で少し触れました。

 現在、私が市川市周辺の道場に出稽古に行くと、「キミの二刀は市川東部の松崎先生に習ったのか」と、年配の先生方から声をかけられることがあります。続けて松崎先生との立会の思い出を、目をキラキラ輝かせながら話してくださる。

 「こんなにたくさんの方々の記憶に鮮明に残っているんだな」

 そういうお話をして下さるのは皆さん一刀者。そのお話で共通することは、松崎先生の二刀に「理」を感じた、ということ。大変貴重な内容です。
 
 現在(平成31年)、もし故松崎幹三郎先生がご存命ならば100歳前後。松崎先生と剣を交えた方々もご高齢になりつつあります。そういう方々に、今の私が稽古を頂き当時のお話を聞かせて頂けることはこの上ない喜びです。
 市川東部のUEKS先生はその中では最年少の60代後半。しかも、最も数多く松崎先生と立合されたお方。(UEKS先生については前回の投稿をご覧ください)

 小学生の頃に、その立会いの多くを目撃している私が、この日、UEKS先生と34年ぶりに再会し、二刀を執って稽古させて頂くことができた。

“聖地”で稽古開始


 前回の投稿からの続き。2010(平成22)年晩夏、とある日曜日。
 34年ぶりに出身道場へ稽古に来て、当時の小学生たちの憧れのUEKS先生と再会した。

 私の中では永遠の青年だったUEKS先生が還暦を過ぎたという。
 こんなにも長く剣道から遠ざかってしまっていたことを後悔しましたね。この道場に何一つ恩返しできていない。申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。

 二刀を執って剣道を再開したと伝えると、話はすぐに松崎先生の思い出話に。貴重なお話をたくさんしてくださった。その内容は、回を改めて。

 稽古が始まり、OIKW先輩が最初に声をかけて下さった。

 「二刀でやろうよ」

 私が躊躇なく二刀でやれるよう、気を遣ってくださってのことなんです。そういう優しい方なんですOIKW先輩は。

 元立ちのOIKW先輩に、二刀を執って稽古をお願いした。
 OIKW先輩の正眼の構えを見て、すぐに思い出した。

 「OIKW先輩は左利きだったな」
 
 構えというのは非常に個性が出るもので、構えに“面影”がある。
 OIKW先輩は晩年の松崎先生と稽古している方だ。やはり対二刀は慣れているとあって、なかなか打たせてもらえない。駆け出しの二刀では歯が立ちません。大変勉強になりました。

子供の頃の夢が現実に


 この10カ月前にリバ剣を決意した時、最初に夢に思い描いたのが「市川東部で二刀をやること」そして「UEKS先生と稽古すること」。
 この夢はそもそも小学生3年の時に、ここで松崎先生とUEKS先生の稽古を見て将来の目標としたものです。(その様子はこちら

 この8カ月前に浦安の道場でリバ剣し、そして二天一流武蔵会の門をたたき、二段の昇段審査に二刀で合格し、ついに市川東部へたどり着いた。
 そして今、九歩の間合いでUEKS先生が目の前に立っている。私は左手に二刀(大小)を提げて。
 
 稽古中は夢心地でした。まさか本当に実現するなんて。リバ剣を決意して本当によかった。人生の不思議を味わいながら、UEKS先生と剣先で"会話"をした。

 私の二刀はまだまだUEKS先生には通用しませんでしたが、本当に楽しいひと時でした。

新たな目標


 子供の頃、初めて故松崎幹三郎先生の二刀流を見たとき、私は興奮して三日間眠れなくなってしまった。

 今度は、「私の二刀を見た子供たちが、眠れなくなるような二刀をやる」。
 それが新たな目標になりました。

 稽古の後、満面の笑みでUEKS先生がこうおっしゃってくれた。

 「まるで松崎先生と稽古しているようだったよ」

 もったいないお言葉です。
 

市川市剣道連盟東部支部(旧中山剣友会)③ 目に焼き付いた「組み討ち稽古」

変わらない"音"


少年時代にタイムスリップ


 2010(平成22)年の夏が終わるころ、34年ぶりに子供の頃に通った道場に挨拶に行ったことを前回の投稿で書きました。

 その翌日の日曜日。早速、防具を担いで市川東部に稽古に行った。
 到着すると、すでに到着していたOIKW先輩が体育館の入り口で出迎えてくれた。OIKW先輩も私が稽古に来ることを心待ちにしていてくれたらしい。
 先日、市川東部に来るように声をかけて下さったTNK先生は、残念ながらこの日はお見えになられていませんでした。(TNK先生についてはこちら
 
 小学生の稽古はすでに始まっていて、参加は昨日と同じ10名程度。これで全員だそうだ。寂しさを感じずにはいられませんでしたね。何しろ、私が小学生の頃は、ここで200名の子供たちが稽古していたんですから。

 「ああ、私が聞いていたのはこの音だ」

 しかし、変わっていないものもありました。
 竹刀の"音"です。竹刀と竹刀が当たる音。竹刀で防具を打つ音。

 この"音"については、それまで気にすることは特にありませんでした。
 それが34年ぶりにこの道場に戻ってきて、"音"の違いに気づいた。施設によって音の反響の仕方が微妙に違うということを、この時初めて知ったのです。
 私にとっての剣道の"音"はこの音なんですね。本当に懐かしい。
 ワクワクして、緊張する、それでいて心地いい"音"。

 「帰って来たんだな」と思いました。

 この日の一般の稽古の参加者は私以外に6名だったと思います。
 大人の参加も毎回これくらいの人数だそう。もう、二刀を執っている方もいないそうだ。
 この中で、OIKW先輩以外にもう一方、34年ぶりの再会となった方がいらっしゃいました。

二刀流 故松崎幹三郎先生とUEKS先生の「組み討ち稽古」


 私が小学生だった昭和40年代後半から50年代にかけてのこと。
 私淑する故松崎幹三郎先生(二刀流)と毎週木曜日に稽古していたNGSK先生のことを、以前に記事にさせて頂いたことがある。(その記事はこちら
 実は、もう一人、松崎先生が木曜日に毎回稽古された方がいらっしゃる。というより、松崎先生(当時50歳ぐらい)が必ず稽古相手に“指名”する方がいた。UEKS先生(当時20代半ば)。


 昭和40年代後半のとある木曜日、午後8時。小学生の私が稽古を終えて、帰り支度をしているころになると、松崎先生が防具を担いで道場に入ってくる。道場全体が緊張感につつまれる瞬間だ。
 すでに面、小手以外の着装を済ませて、準備運動をしているU先生の表情からは笑顔が消え、集中モードに入ったのが分かる。
 他の小学生たちは家路につく中、私は道場の隅で、これから始まる稽古を目に焼き付けようとしている。

 稽古が始まった。元立ちの松崎先生が大小を抜刀して蹲踞し中段十字に構え、同時に掛かり手のUEKS先生が一刀中段に構えた。
 立ち上がると同時に、正二刀の松崎先生が小刀は中段のまま大刀を上段に構えた。二刀の代表的な構え「上下太刀」。UEKS先生は正眼の構え。二人の気合が道場に響く。松崎先生は“歩み足”。UEKS先生は“送り足”。お互いに間合いを詰める。
 “石火の機”に二人が動いた。
 初太刀はUEKS先生の面と思いきや、そこへ松崎先生が“流水の打ち”をかぶせて豪快な出ばな面で初太刀を取った。道場に打突音が響き渡る。
 なおも前へ出てくるUEKS先生の剣尖を小刀で表から押さえ、それに反発して剣尖を中心に戻そうとする刹那を大刀で小手をバックリ。
 今度は起死回生に先々の気概で飛び込んだUEKS先生の面打ちを、小刀で受けると同時に大刀で胴を抜いた。胴が割れるかと思うようなものすごい迫力。それでいてすべての動きが華麗で美しい。まるで踊りを踊っているよう。しかも圧倒的に強い。松崎先生の二刀の特徴だ。
 「いや、まだまだっ!」
 UEKS先生も、参りましたとは言わない。“最強の二刀流”に一刀で真正面から挑み続ける。二刀と一刀、明らかに条件が違う。スポーツだったらありえない、日本古来の武道であればこそ。その戦いぶりに見ている者皆心を打たれた。
 時計の針はすでに午後9時を回っている。二人で1時間以上ぶっ通しで稽古しているのだ。もう稽古というより“死闘”だ。
 片手で竹刀を振り続け握力が低下してきた松崎先生が、UEKS先生の体当たりを受けて右手に持った大刀を落とした。すかさず“入り身”になった松崎先生は、UEKS先生の竹刀を奪おうとその柄に手をかけた。
 UEKS先生は竹刀を奪われまいと両手に力を入れて握った瞬間、腰が浮いてしまった。そこを逃さず、松崎先生がUEKS先生に足払いをかけた。もつれて倒れ込む二人。「組み討ち稽古」の始まりだ。
 「組み討ち稽古」は面を外されるか、「参った」と言ったら負け。二人とももう竹刀は持っていない。床に転げて組み合うこと数分。松崎先生がUEKS先生の体をキメて面を外した。
 息が上がる二人。とっくに体力の限界は超えている。それでも立ち上がって、落とした竹刀を拾い、九歩の間合いをとって静かに正座した。組み討ち稽古で乱れた着装を整える。UEKS先生は外された面を着け直した。
 立ち上がって、立礼から互いに抜刀し、UEKS先生が気力を振り絞って気合もろとも打ち込んだ。稽古の締めの「切り返し」だ。こうして1時間以上続いたの二人の稽古は終了した。
 
 見ている私たちは感動しかありません。こういう「稽古」を毎週されていたのです。忘れられるはずがありません。攻め込む時の松崎先生の足の指の動きまで、鮮明に覚えています。

 
 今回、このUEKS先生に再会することができた。二刀流 松崎幹三郎先生の“生き証人”です。
 
 

2019年4月21日日曜日

市川市剣道連盟東部支部(旧中山剣友会)② 34年ぶりに出身道場へ

「剣道」と出会った場所


リバ剣の二刀者は受け入れられるか


 前回の投稿では、リバ剣して最初の段審査の会場で再会したTNK先生の"教え"について書かせて頂きました。
 再会した時に、「二刀をやっているなら"東部"へ来てください」と声をかけて頂いた。(その時の経緯はこちら

 これはうれしかったですね。あの"怖い"TNK先生が満面の笑みで「古巣」に来るように促してくださった。

 正直、迷っていたのです。いつ市川東部に行こうかと。
 古巣といえども、今、どのような状況になっているかどうか分からない。少子化の影響で消滅している道場もあると聞きます。
 現在も同じ場所(中山小学校体育館)でやっているのか。主たる運営者は誰なのか。私のことを知る人が現在もいるのか。HPもないようなので、情報がまったくない。

 私が市川東部に在籍していたのは小学6年まで。中学からは部活で剣道をやっていました。(当時の市川東部〔旧中山剣友会〕の様子はこちら
 ですから、市川東部に行くとすれば34年ぶりになります。はたして、剣道再開したので二刀で稽古させてくださいなんて言って、受け入れてもらえるのだろうか。それがとても不安でした。

 しかし、TNK先生から声をかけて頂いたことによって、それは“取り越し苦労”になりました。

まずはご挨拶へ


 「ああ、あの頃のままだ」

 2010(平成22)年晩夏。
 とある土曜日の夜、市川市立中山小学校体育館前に着いた。
 34年ぶり。外観は何も変わっていない。窓からは明かりが漏れ、剣道の稽古をする子供たちの気合が聞こえる。

 懐かしいというよりは、何かせつないような、ほろ苦いような……。
 嫌な思い出があるわけでもないのに、胸が締め付けられるような……。
 夢が詰まり過ぎているんでしょうね、この道場には。

 冷房の設備はないようで、暑さのため出入り口の扉が開け放しになっている。
 中をのぞいて見ると、小学生が10名弱、指導している大人が2人。

 やはり少子化の影響か。週末のわりには人が少なすぎる。
 私が子供の頃、週末ともなればこの体育館には、入り切れないほどの人が集まり、活気に満ちあふれていました。

 指導をしている大人2人の「垂ネーム」に目をやると、1人は私と同時期にここで稽古をし、試合にも一緒に出場していた方だ。一つ年上のOIKW先輩。お互い年を取りましたが面影がある。

 「やはり剣道を継続されていたんだな」

 安心しました。OIKW先輩なら必ず私のことを覚えているはず。小学生の頃は、いつも私の面倒を見て下さる優しい先輩でした。

 小学生の稽古が終了したところを見計らって、一礼して道場の中へ。
 お2人のもとへ挨拶に向かった。

 「○○です。大変ご無沙汰しております」と名前を名乗った。
 
 少しの沈黙の後、OIKW先輩が「小学生の時ここにいた○○君?!」と驚いた様子。

 「そうです!」

 この半年ほど前に浦安で剣道を再開したこと、先日の段審査の時にTNK先生にお会いして声をかけて頂いたこと、二刀をやっていることなどを報告した。

 初めてお目にかかるもう1人の指導者の方と、OIKW先輩、お2人とも大変喜んでくださり、翌日の日曜日から稽古に参加することを約束して、道場をあとにしました。


 このことをきっかけに、剣道でご縁があった方々と次々に再会し、数えきれないほどの新たな出会いが、加速していくことになります。

 子供の頃、この道場に詰め込んだたくさんの夢。
 その“夢”を一つ一つ、現実の世界に引き出す時がきた。


2019年4月19日金曜日

市川市剣道連盟東部支部(旧中山剣友会)① TNK先生

TNK先生は“怖い”


剣道で大事なことを教えて頂く


前回の投稿で、2010(平成22)年8月に、リバ剣後初めての段審査を、二刀で受審したことを書きました。
 その会場で、出身道場の恩師TNK先生と34年ぶりに再会した。

 私が小学生の頃、TNK先生は20代後半か30歳ぐらいだったでしょうか。とても怖い先生でした。

 まずは、顔が怖い。(笑) これは説明できません。とにかく怖い。
 そして、剣道が怖い。

 これは、どういうことかというと、正眼に構えた時の剣尖が怖い。剣尖が常に物を言っているのです。
 これは、小学生だった私たちにはとても恐怖で、どう打っていっていいか分からない。子供相手にも関わらず、剣尖を緩めてくれないのです。

 剣尖が怖いから、正面をはずして左右にややずれて打っていったり、体を開いて打ったりする。そうすると、まったく打たせてもらえないんですね。すべてさばかれてしまう。
 どうすればいいか分からず、泣き出してしまう子供が続出でした。
 その頃の私はどうしたかというと、TNK先生のところには並ばない、そういう"対策"をとりました。(笑)

 当時、この道場は小学生が約200名在籍していましたので、一人の元立ちの先生に対して、5~10名ぐらいの子供たちが常に並んでいました。自分の順番が回ってくるまでには時間がかかります。(当時の様子はこちら
 TNK先生のところにまったく並ばないわけにはいきませんので、稽古終了時間の間際になってから並ぶ。そうすると、時間切れで私の前で終わるのです。稽古する意欲はあったと見せられるわけです。
 しかしこれが、うまくいかない時があるんです。思ったよりも早く順番が回ってきて、自分の番になってしまうことがある。それでようやく「もう、やるしかない」と心を決めて、稽古をお願いするわけです。

無言の教え


 私が小学4年生ぐらいだったと思います。ある木曜日の稽古。

 その日は参加者が極端に少なく、小学生は10名ぐらい。元立ちの先生は2名だったでしょうか。その先生のうちのお一人がTNK先生でした。

 基本稽古が終わって地稽古が始まりました。この日はもうTNK先生にかかるしかない。
 意を決してTNK先生の前へ、一番に並んだ。
 稽古が始まって構えると、いつも通り正眼に構えたTNK先生の剣尖が緩んでない。やっぱり怖い。どう打っていっていいか分からない。

 他の先生でしたら、相手が小学4年生ぐらいまででしたら、剣尖を緩めて打たせてくれる。緩めるどころか打突部位を開けてくれる先生もいる。

 TNK先生の剣尖は物を言っているんですね、常に。怖いものですから、中心を取らずに斜めに打っていったり、正中線でとらえずに開いて打ったり、体は残して手先だけで打ったり、自分の考えうる方法で打ってみた。でも、やっぱり打たせてもらえない。すべてさばかれてしまう。

 「もう真正面からまっすぐ打つしかない。どうにでもなれ」

 TNK先生に正対し、正中線を割って思い切って正面を打った。

 初めて打たせてもらえました。
 すべてを捨てて正面から攻め入った時、私の中心に向けられたその切っ先が緩んだ。その刹那を打つことができた瞬間です。
 その後も、真正面から捨て身で打っていくと、次々と打たせてくださる。

 「TNK先生は、これを教えようとしていたんだな」

 言葉は一切なし。剣尖で教えて頂きました。

 いつもは“怖い”面金(めんがね)の奥の顔が、微笑んでいました。

 あれから45年たった今も、ガチンコの相面で相手を仕留める時、思い出すのはTNK先生のこの“無言の教え”です。


※TNK先生は、再会した2010(平成22)年当時は市川市剣道連盟会長。現在(平成31年)は同名誉会長をされております。
 
 

2019年4月18日木曜日

剣道昇段審査② 二刀で二段を受審

リバ剣して最初の段審査


33年ぶり、46歳で


 前回の投稿で、2010(平成22)年の段審査を二刀で受審することを、決意した経緯を書きました。
  
 リバ剣した時は初段。中学1年生で取得したものです。
 今は、中学生は2段まで取得可能ですが、当時は初段まで。高校に入って、いよいよ二段を受審するという時に極度の貧血でドクターストップ。運動は禁止され、剣道継続も断念した。(その経緯はこちら

 あれから30年たって、46歳のオッサンになり、剣道でやり残したことに一つひとつチャレンジし始めた。
 同級生で当時一緒に剣道をしていた仲間や後輩たちは、皆、もう剣道七段です。剣道強豪校に通っていましたので、その後も剣道を継続した者は順当に昇段してました。

 そういった昔の剣道仲間や恩師との再会も夢見ながら、昇段審査の当日を迎えた。

初段から三段までの審査会


 剣道の段審査は、初段から三段の審査会は支部剣連が主催します。
 私が登録している剣連は浦安市ですが、その場合はお隣の市川市で受審することになります。
 
 私は元々は市川市在住でした。結婚を機に浦安に越した。そして、生まれた子供が小1の時に剣道を始めたいと言うので浦安の道場に入会。続いて妻もその道場で剣道を始めた。その後に、私がリバ剣しましたので、私もその道場に通うことになった。そういう経緯があります。

 ですから、子供の頃は市川市で剣道をやっていた。所属していた道場は中山剣友会(現:市川市剣道連盟東部支部)という市川市で最も古い、戦後、市内で最初にできた道場の出身です。(この頃の様子はこちら
 
 なので、昔の剣道仲間や恩師は今も市川市で剣道をやっている。二段の受審で市川市の審査会に出るということは、そういう人たちに私がリバ剣したと表明しに行くようなもの。
 本当はもう少し上達してから、私の二刀を見てもらいたかったんですけどね。浦安でやっていれば"バレない"と思ったんですけど、そうもいきませんでした。笑

 「恥ずかしい剣道はできないな」
 気持ちが引き締まります。

 剣道の段審査は、二刀で受審することも可能です。
 しかし当日、数百名が受審する中、二刀者は私一人でした。当たり前ですね。初段から三段の審査会に、二刀者がいるはずありませんからね。

審査当日


 2010(平成22)年8月。市川市国府台スポーツセンター第一体育館。
 私が子供の頃から初段から三段までの段審査の会場はここ。建物も変わりませんが老朽化は否めません。

 会場に入り、二段受審者の列に並んで受付を済ませた。
 初段と二段の受審者のほとんどが中学生。三段の受審者のほとんどが高校生。
 そこにそれぞれ、それよりも年齢が上の受審者が少数いるという感じ。
 
 二段の受審者で40歳上は、私を含めて4名でした。
 なぜ、年齢が分かるかというと、審査の立会いの組み合わせの順番が、年齢順になっているからです。同年代が3名いただけで、ホッとしました。

 審査会の流れは、まず午前中が実技審査。2名の方と立合います。つまり2回審査されるわけです。
 これに合格すると午後から、形(かた)の審査を受けます。二段受審者は、日本剣道形の一本目から五本目までを演武します。
 これにも合格すると、筆記試験があり最終的な合格発表があります。

審査開始


 審査会場は3つ。二段の受審者は、第三会場。
 実技審査は若年者から順に審査が始まりますので、我々中年者の出番は最後の方。
 昼近くなってようやく順番が来た。

 実技一回目。お相手と向き合い、立礼から大小を抜刀して蹲踞。「はじめ」の号令がかかって立ち上がり、上下太刀(二刀の代表的な構え、上段の構えの一種)に構えた。

 「おぉーっ」という観覧席からのどよめき。

 ただでさえめずらしい二刀流が、二段の審査会場に現れたんですから、驚きますよね。
 観覧席にいた妻にあとで聞いた話ですが、他の2会場の審査員まで(1会場に審査員は5人います)全員が私の立会いを見ていたそうです。

 お相手にしてみれば、災難ですよね。当然、二刀と立合うのは初めてでしょうから。
 まったく間合いの感覚がつかめない様子で、一方的に私が打ち込む展開になりました。
 剣道ですから本当はそれじゃいけないんですけどね。理合がなければダメ。
 まあまだ二段の審査ですから、そこまでの理は要求されてませんけど。

 二回目の実技もほぼ同じ展開に。しかし、終了間際に油断して、見事な「小手抜き面」をいただいてしまった。

 私の二刀がどう評価されたのか。どちらに転んでも、やるべきことはやったので、スッキリした気持ちでした。

 最年長者の立会いが終わって、すぐに結果発表。

 実技は合格していました。

形(かた)の審査


 昼食をはさんで、午後は形の審査から。
 小学生の頃に、「形稽古」はみっちりやっていたので不安はありませんでした。

 結果は、形の審査も合格。あとは学科試験のみ。

 学科試験といっても、事前に提示された課題について、回答を論述した用紙を提出し、審査員がその場で合否を決める方式。これも合格。
 
 最後に登録料を支払って、審査終了。

 「お父さん、僕も大人になったら二刀流をやる!」

 観客席に戻ると小学4年だった息子が飛びついてきた。
 リバ剣し、二刀で二段審査合格。本当にうれしかったですね。
 息子の"笑顔"で、張り詰めた緊張感が解けました。

34年ぶりの再会


 実は、私が審査を受けた第三会場の審査員の中に見覚えがある顔があったのです。
 審査前や審査中に、審査員と受審者が会話することは禁じられているので、ご挨拶はできませんでした。
 
 しかし、すべての審査が終了すると、その方が私の方に向かって歩いて来た。

 やはり、TNK先生だ。すぐに分かった。
 小学生のころ所属していた中山剣友会(現:市川市剣道連盟東部支部)の先生です。
 当時は若手でしたが、髪の毛もすっかり白くなって、満面の笑みで声をかけてきてくださった。

 「おめでとう!二刀をやっているなら"東部"へ来てください」

 市川東部支部。私にとっての二刀の"聖地"………(その理由はこちら
 子供の頃に、将来二刀を執ることを夢見て通ったあの道場で………
 夢が現実になる………

 

2019年4月17日水曜日

剣道昇段審査① 二刀流でリバ剣直後の苦悩

想定していなかった昇段審査


受審すべきか否か


 2010(平成22)年7月。
 右ヒザ半月板損傷の手術から2カ月たって、少しでも遅れを取り戻そうと二刀剣道の稽古にますます力が入っていたころのこと。(半月板を損傷した時の様子はこちら
 地元の所属道場の稽古に行くと、道場の役員をされている方から声をかけられた。

 「来月の昇段審査は受けますか」
 
 ドキッとしましたよ。段審査のことなんて、全く考えていませんでしたから。
 リバ剣を決意して以降、剣道ができる体を作ること、二刀をやるため片手刀法を身につけること、そのことに集中して今できることをやってきた。

 この時、私はまだ初段。リバ剣して半年。二刀でしか稽古していない。

 「来月の段審査は、受審すべきか回避すべきか」

 悩みました。とことん悩みました。

 実際問題として、二段の昇段審査を「二刀」で受審する人なんていません。少なくとも戦後は、そういう人はいないんじゃないでしょうか。

 戦前はいました。私淑する故松崎幹三郎先生は大正生まれ。旧制中学で剣道初心者から二刀を始め、一刀は習ったことがないお方。段審査も、初段から六段まですべて「二刀」で受審された方です。(故松崎幹三郎先生についてはこちら

 受審するとしても、二段を「二刀」で受審していいものなのか。または、この時だけ「一刀」で受審すべきなのか。

 迷いました。

 この時は結論を出せず、審査申し込みの返事は、1週間以内にさせて頂くことにしました。

息子のひと言


 「お父さんといつになったら稽古できるの?」

 所属道場で一般の稽古が始まろうとした時、小学4年になった息子が言った言葉です。
 
 息子は小学1年からこの道場で剣道を始めていて、この頃には小学生の部の稽古が終わると、続けて一般の部の稽古にも参加していました。

 私はこの時、リバ剣して半年。二刀でしか稽古していませんし、自分の稽古で精一杯だったので子供たちと稽古したことはありません。同じ道場に通いながら、息子と一度も稽古したことがなかったのです。

 何か納得のいく結果を出すまでは、一刀はやらないと決めてしまっていたため(その理由はこちら)、息子には随分と寂しい思いをさせてしまっていたと思います。

 「よしっ、二段を二刀で受審し、合格したら一刀での稽古を解禁しよう」

 息子のひと言で、受審すると決めた。

 段審査を二刀で受審して合格すれば、曲がりなりにも剣連から自分の二刀が認められたということ。そうなれば、二刀を執る自信にもつながる。
 
 そしてその日、昇段審査受審の申し込みを済ませた。

何度不合格になっても構わない


 二段を二刀で受審すると決め、申し込みはしたものの、不安感に襲われた。

 「二刀で受審したら、審査員の先生方になんて思われるだろう」
 
 受審を決めてから、何人かの高段者の先生方に、「二刀で受けても受からないよ」なんて言われました。
 そういう言葉は覚悟していたんですけど、面と向かって言われると、かなり凹みますね。

 昭和40~50年代は、二刀をはじめとする片手刀法に対し、著しい誤解と偏見があった時代。(その様子はこちら
 稽古では二刀とはやりたくないと中傷され、試合では片手で打ってるというだけで旗が上がらない、段審査では偏見から二刀の合格者がでない。
 しかし、そういった時代にあって、二刀を執り続けた方々がいらっしゃる。二刀者の数が激減した時代に、信念を貫き通した二刀剣士がいる。
 私は、小学生の頃、それをこの目で見ているのです。
 
 特に、故松崎幹三郎先生にあっては、芸術的な美しさのある二刀をやる方で、しかも圧倒的に強かった。しかし、二刀に対する偏見から、段審査では大変ご苦労なされたと伺っております。松崎先生は前述したとおり、まったくの剣道初心者から二刀しかやっていないのです。一刀は習ったことがない。ですから「二刀でだめなら一刀で」なんてできなかったのです。

 先師荒関二刀斎もこの世代のお方ですから、取り巻く環境は同じく厳しかったんではないでしょうか。

 そういった方々のご苦労があったからこそ、今、こうして私たちが二刀を執ることが出来るのです。
 そう思った時、何度不合格になったとしても二刀で受審する以外ない、そういう決意が沸き上がってきました。

 審査の数日前。所属道場の高段者TZW先生が背中を押してくださった。

 「二刀で受けるかどうか悩んでいるの? 君は二刀でしか稽古してないんだから、堂々と二刀で受審しなさい」
 
 涙があふれそうになりました。


注目の投稿です

宮本武蔵『独行道』「我事に於て後悔せず」を考察する

後悔などしないという意味ではない 布袋観闘鶏図 宮本武蔵 後悔と反省  行なったことに対して後から悔んだり、言動を振り返って考えを改めようと思うこと。凡人の私には、毎日の習慣のように染み付いてしまっています。考えてみれば、この「習慣」は物心がついた頃から今までずっと繰り返してきた...

人気の投稿です