2020年2月17日月曜日

剣道 心を学べは上達できるのか

小説に描かれたことを本当のことと思い込む人たち


「剣は心なり、心正しからざらば剣も正しからず、剣を学ばん者は心を学べ」


 このフレーズを何かで見たり聞いたりした事がおありだと思います。
 社会人の講話や剣道漫画のセリフに引用されることが度々ある言葉です。最近では、中学生が剣道部の揃いの手ぬぐいに染め抜いたり、ポロシャツの背中にプリントしているのを目にしたりします。
 それなりに、人の心に響く力を持ったいいセリフなんですね。だから剣道経験が有る無しにかかわらず人々が耳にし、いまだに使われ一人歩きしている説教です。

 このセリフは、もとはといえば大正2(1913)年から新聞連載が始まった中里介山の『大菩薩峠』という長編小説の中に出てきます。島田虎之助という直心影流の剣客が、彼を暗殺しようと襲いかかる浪人たちを手もなく片付けたあと、彼が一味の首魁に向かって浴びせかけるセリフ。それが「剣は心なり、心正しからざらば剣も正しからず、剣を学ばん者は心を学べ」です。

 しかし残念ながら、このセリフは中里介山の創作です。小説とはそういうもの。取材や歴史的資料などで大枠を創り、想像や思いつきでストーリーを肉付けしていく。その時代の読者に合わせた表現が、至る所に散りばめられた作品が作り上げられるわけです。
 厄介なのが、創作と事実が混同しているので、作品を読んでいるうちに書かれていることすべてを事実として誤解してしまう人がいることです。

 例えば、坂本龍馬といえば、司馬遼太郎の小説に描かれた人物像が、我々の龍馬のイメージになっていますね。司馬遼太郎の小説を原作とした映画やドラマ、漫画などが多く作られたことが影響しています。
 しかし、実際の司馬遼太郎の小説のタイトルは「竜馬がゆく」。坂本龍馬の龍馬ではなく"竜馬"なのです。司馬遼太郎はご丁寧に、この小説の主人公である“竜馬”は架空の人物ですよと、前もってことわっているのです。
 また、宮本武蔵の生涯を描いた吉川英治の小説『宮本武蔵』。ここに登場するお通さんは実在しませんし、佐々木小次郎の人物像も史実にはありません。

 それが小説というもの。事実と注意深く区別しなければなりません。

剣道(剣術)は道徳的観念を押し付ける道具ではない


 話はあの「剣は心なり……」のセリフに戻りますが、江戸期から明治にかけての戯作本、講談本に登場する剣豪は、このような説教じみたセリフを決して口にしません。
 剣客に、剣聖というおかしな“理想像”を求めるようになってしまったのは大正期。大衆小説が一般化し、その書き手たちが読者の求めに応じて、自作に取り込んでいったことが始まりではないでしょうか。

 「剣は心なり……」のセリフを聞くと、道徳的には一瞬説得されてしまいそうになりますよね。しかし、よく考えればズレているんですよ。目的の遂行から物事を考えていないことは明らかですね。だから話が矛盾してしまっている。
 剣道(剣術)は観念のうちにはありません。実在する敵(相手)との戦いなのです。
 その戦いに勝つために、厳しく辛い稽古を積んでいる。それなのに、剣は心だ、精神だと粗雑な理屈に逃げ込んでしまっている。厳しい稽古に日々打ち込んでいる剣道家にとっては、実に失礼な話です。

 さらに、現在の若者たちが、このセリフを正しい剣道訓だと誤解してしまっていることは問題です。心を学べば剣道が上達できることになってしまった、あるいは剣道の強者は人格的にも優れているという幻想ができてしまったんですね。
 実際はそうでないことは、剣道をやっている者ならばわかりますね。しかし、このセリフは剣道訓だと疑わない若者、いえ、大人だってそう理解している人が多いかもしれません。

道徳は理ではない


 道徳とは、その民族の生活様式や文化を背景にして、人間相互の関係を規定する通念です。ですから国や地域が異なれば道徳も異なります。よって、道徳は理ではありません。
 稽古をするのは剣理を追求するのが目的。道徳を追究するのが稽古ではありません。道徳を学ぶのであれば、もっと違う方法があるはずです。

 宮本武蔵は著書『五輪書』の中で、大工の棟梁を例にとってこう言っています。
 深い精神があるから、よい家が建つのではない。よい家を建てるという目的、それに向かう行為の中に、日常の生活では隠れている深い身体や細やかな心の原則が顕れてくる。この目的はすべてに先行する。
剣術とは、敵を斬るという端的な目的のために生まれたものであることは言うまでもありません。
 それを朝鍛夕錬していく中で、身体や心の運用法に理が顕れてくるというのです。武蔵はなにも心の存在を否定しているわけではない。
 目的の遂行があってはじめて心が磨かれると言っているわけです。心が磨かれれば、目的が達成されるわけではないのです。

常に目的を明らかにする 


 「とにも角(かく)にも、きるとおもひて、太刀をとるべし」(『五輪書』水之巻)とは、武蔵の繰り返し説くところです。
 剣術(剣道)は説教の種ではない。深く厳しい稽古の中で、身体と心に顕れてくる理をつかむのだという。

 『五輪書』に記された武蔵の思想は、禅などのに影響された知識人風な理屈とは関係がありません。剣術(剣道)で学ぶべきことは何なのか、それを学べば(稽古すれば)何を知ることができるのか、武蔵は約400年前に明快に書き遺しているのです。

 繰り返しますが、剣道は説教の種ではありません。
 道徳的観念の押しつけで、剣道が上達するのであれば、誰も苦労はしませんね。


※当ブログの剣道記事のタイトル一覧は、こちら


2020年2月14日金曜日

剣道 成長した息子を見て思うこと

驚きと感動の光景


追い出し稽古


「ああ、私が伝えたことをすべて実行しているんだなぁ」

 2019(平成31)年3月4日、都内某高校の剣道場。急性リンパ性白血病を克服して、久しぶりに息子が通う高校へ。この日は、3年生が卒業する直前に行われる「追い出し稽古」の日。
 都内では剣道強豪校の一角を占める学校で、3年間部活を休むことなく継続してきた息子。高校での最後の稽古を観るため、息子の学校へ行ったときに率直に感じたことです。

 まずは通常のメニューで稽古開始。そして最後に、卒業する3年生が元に立って地稽古になるのですが、下級生たちが次々に本気で掛かっていく。
 稽古をつけてやる立場の3年生がヘトヘトになって音を上げる、いわゆる「追い出し稽古」。息子の試合の観戦をしたことはありましたが、私が大病をしてしまったこともあり、高校生になってからの稽古を観る機会はほとんどありませんでした。

泣き虫少年剣士


 小学1年で剣道を始めた息子。その3年後に私が剣道を再開しました。ちょうど30年のブランクを経て。
 小学校低学年の頃の息子は、道場でいつも泣いてばかり。そんな息子がかわいそうで見ていられず、あまり道場には行かなかった私。しかし、あるきっかけで息子が小学3年を終わる頃に、私が剣道を再開して同じ道場で稽古するようになった。(あるきっかけとは、こちら

 「お父さんが始められてから、息子さんの剣道が変わりましたよ」

 ある保護者の方にかけられた言葉です。息子が剣道に真剣に取り組むようになったんですね、この時。強くなりたい、上達したいという気持ちが芽生えたようです。

試合で勝てない


 息子は小学校高学年になって、毎週のように対外試合に行くようになりましたが、試合に勝てないんですね。所属道場内ではそこそこでも、大会に出たら勝てない。
 それでも剣道が大好きで、張り切って稽古に行く姿を見て、息子自身が壁にぶつかるまでは、アドバイスはしないでいました。本人が吸収できる時に伝えないと、理解できないと思いまして。

剣道が好きでなくなっているかも


 中学に入って盲腸で2度入院した息子。これで、すっかり剣道への意欲がなくなってしまったように見えた。ライバルに差をつけられてしまったんですね。手術を終えて復帰してからも、何か惰性で部活をやっているような感じ。小学生の頃のような、生き生きとした様子が感じられないんです。

 「このままでは、剣道の本当のおもしろさを分からないまま、やめてしまうかもしれない」

 そう思った私は、息子と1から稽古し直すことを決意します。息子が中学2年の頃だったと思います。

二人だけの稽古


 毎週日曜日の夜、市の総合体育施設にある剣道場を借り切って、息子と二人で稽古しました。内容は基本稽古のみ。最初の数週間は、竹刀は持たず、足さばきの稽古。腰を入れた打突には不可欠な稽古法である「ナンバ歩き」を、徹底的に教えました。(ナンバ歩きとは、こちら
 次の数週間は構えの矯正と、正しい素振り。その次は、ひたすら切り返し。その次は………

 一つひとつの段階を、確実に身につくまでやって次にいく。よくも嫌がらずにやってくれたと思います、一年近くも。普通、中学2年といえば反抗期の真っただ中ですよね。そんな時期に父親と二人だけで毎回2時間の稽古をするんですからね。「あのとき頑張ってよかった」と思ってもらえるように、こちらも真剣でした。

 息子と稽古するにあたって、私自身に課した決まり事は三つ。
  1.  怒らない
  2.  大声を出さない
  3.  一つ一つの動作の意味(理)を伝える

剣道の楽しさ


 子供は、身長が伸びたり、体重が増加したりして、体のバランスが変わります。ですから、常に基本稽古に時間を割かなければなりません。そして、正しい基本が身についたところで、実戦メニューに入りました。二人だけの稽古を始めて半年ほど経ったころでしょうか。

 「攻める」、「相手の出ばなをとらえる」、「腰を入れて打つ」、「手の内の冴え」。正しい基本が身につけられたので、このあたりのことは教えればすぐにできるようになりました。
 そして、「一本をとること」=「理の体現」ということを、頭と身体で理解していったようです。出場した大会では、強豪校の選手に勝ったりして自信がついてきたみたい。運動神経がいいとは言えない息子が、試合で勝てるようになって結果が出はじめた。
 この頃には再び、剣道が楽しいという表情になっていましたね。そして、中学3年で進路を決めるにあたり、息子の希望はこうでした。

 「剣道の強豪校に進学したい」

病床で息子に伝えたこと


 息子が自分で決めた希望どおりの高校に進学し、休日には全国を遠征して回るようになりました。そんな生活にも慣れ、2年生にでもなれば試合に出場できる機会も増えると楽しみにしていた矢先、私が急性リンパ性白血病になってしまった。治療しなければ余命1カ月の病です。(私の急性リンパ性白血病闘病の様子は、こちら
 
 「もう息子と剣道をすることはないかもしれない」

 そう思った私は、抗がん剤治療を受け病院のベッドに力なく横たわりながら、面会に来た息子にいつもこんな話をしました。

  • 磨くのは「基本」、おろそかにするな
  • 大事なのは稽古に取り組む姿勢、試合に勝つことではない
  • 絶対に初太刀を取るという気概を忘れるな
  • 元に立って受ける場合も、気を抜くな。打たせる時は、絶妙なタイミングで打たれろ。元に立って打たせている時は、休憩時間ではない。元に立っている時も稽古せよ
  • どんなに強い相手でも、技には必ず技の“起こり”がある。強い相手の起こりをとらえられるように
  • 剣道は運動神経がいい者、体力がある者が勝つのではない
  • 理を体現できる者が勝つ、正しい剣道をする者が強い相手に勝つことができる

 まあ、ざっとこんなとこでしょうか。言わんとしたことは、「心構え」。小手先の剣道をするなということ。
 そんなことをすれば、一時的には試合に勝てても、本当の意味で上達することはできない。一生上達するための土台、剣道のおもしろさを知るための土台を作ってもらいたいがため。
 私がいつ死んでも悔いがないように、真剣に伝えました。

感謝でいっぱい


 奇跡的に治療を乗り越えることができ、高校最後の息子の稽古を見ることができたのが、冒頭の「追い出し稽古」。
 しばらく見ないうちに、伝えたことすべてをすべて実践してたんですね、息子が。後輩たちにも慕われて、3年生として立派な稽古をしていました。

 日曜の夜の二人きりの稽古、病室での二人きりの会話。その一つ一つの場面が走馬灯のようによみがえった。
 努力すれば、こんなに堂々とした剣道ができるようになるんですね。本当に感動でした。

 「これなら大丈夫。一生上達できる。一生剣道を楽しめる」
 
 ありがとう、息子!
 剣道って素晴らしい!
 人生って素晴らしい!


2019年11月10日日曜日

令和元年 浦安市秋季市民剣道大会 2度目の総合優勝!

病気とケガを克服した"おやじチーム"

総合の決勝、筆者(中堅)の試合

3年ぶりの再結成


 2019(令和元)年11月4日、浦安市秋季市民剣道大会が開催されました。
 この秋季大会は団体戦のみ。個人戦は春季大会でおこなわれている。

 団体戦は3人制で、過去3回同じメンバーで出場しています。
 今回は3年ぶりの参加となりました。
 というのは、中堅を任されていた私が一昨年に急性リンパ性白血病と診断され、治療のため入院。奇跡的に回復して昨年復帰。(闘病の様子はこちら
 しかし昨年、今度は大将を務めていた方が、稽古中に左アキレス腱を断裂。そのため、2年間チームを組めず、出場を見合わせていました。

壮年の部の優勝は、過去3回


 それでようやく今年、チームを再結成することができたのです。
 このメンバーにこだわっているのは、過去にこの大会の壮年の部で3連覇しているから。3年前(2016年)の大会からは総合の決勝も行われ、その時は青年の部の優勝チームをも破って、総合優勝しています。(その模様はこちら

 病気やケガで連覇は途絶えてしまいましたが、それを克服してチームを再結成できた喜びの方が大きかった。3人とも口には出しませんでしたが、今回も最初から総合優勝を目標にしていてたと思います。まずは予選リーグを1位で通過し、壮年の部の決勝へ駒を進めました。

壮年の部、決勝


 40歳以上のチームが対戦する壮年の部。大会パンフレットの参加チーム一覧を見た時、決勝まで勝ち上がってくるだろうと思ったチーム。予想通りそのチームが決勝のお相手です。
 それは近隣ライバル道場の方々。年齢的には我々と同じぐらいだと思いますが、皆さん高段者。一方、こちらは全員リバ剣組で低段者。笑
 風格も品格も、お相手チームの方が数段上です。苦笑

 まずは先鋒戦。こちらは逆二刀、TD範士のお弟子さんです。予選から絶好調で、勝ち点を挙げてくれる頼もしい存在。しかし、お相手はかなり対二刀を研究してきたと見えて接戦になっている。互いに有効打突なく時間切れで引き分け。

次は中堅戦。私、正二刀。主審の「はじめ」の号令で蹲踞の姿勢から立ち上がり、中段十字の構えのまま攻め込もうと前へ出た。すると、お相手はすかさず左小手を打ってきた。中段十字の構えの小刀側の小手を打っても、打突部位にはまず当たることはありませんから、そのまま見逃した。
  すると、「小手あり」と主審の声。左拳を打たれたんですね。拳は打突部位ではありませんので、厳密には誤審です。
 しかし、心を乱すこともなく、平常心のまま一本を取ることだけに集中。お相手が居付いたところを「面」を打って一本取り返し、そして試合時間終了間際に「出ばな面」でもう一本。これで二本勝ち。

  そして大将戦。激しい攻防の末、有効打突がないまま時間切れの合図。その瞬間、私たちのチームの壮年の部の優勝が決まりました。

総合の決勝


  ついにここまで来ました。
  市民大会ですから、対戦するお相手は面識のある方が多い。剣風もなんとなくわかっている。しかし、それは壮年の部の話。
  青年の部は毎年、出場者の入れ替わりが早いので、初めてお目にかかる方がほとんど。
  なので、青年の部の試合は、目を皿のようにして見てました。どのチームが総合の決勝の対戦相手になってもいいように。
  あるチームの中堅の選手を見て、この選手とだけはやりたくないな、と思った。
  するとやはり、そのチームが総合の決勝のお相手になるんですねぇ、これが。

  しかし、この時点では、私はなんとか引き分けに持ち込めればいいかな、ぐらいに思ってた。私のチームの先鋒は絶好調ですし、お相手のチームの先鋒は諸手左上段。二刀者にとっては対戦しやすいお相手ですから勝ってくれるんじゃないかと。
  しかしこのあと、勝負の世界でそんな甘い考えが通用するわけがないと、再認識させられることに。

 総合の決勝戦になると、市総合体育館のメインアリーナの試合会場も、一つのコートだけが使用されることになります。すると、観覧席にいた方々が最後の試合を間近で見るために次々にアリーナに降りてきて、その一つのコートのすぐ脇に陣取る。会場全体が緊張に包まれた独特の雰囲気です。
 総合の決勝戦が始まりました。

先鋒戦


 先鋒戦は、逆二刀対諸手左上段。派手な対戦に、観戦している少年剣士たちも目が釘付けの様子。
 諸手左上段の方は、逆二刀に対してどう攻めていいか分からないのか、理合(りあい)なく打突している。
 それを難なくしのいで、機をうかがっていたこちらの逆二刀者は、挑発しようとする意図があったんでしょうか、小刀を持つ右手を自分の腰の後ろに回したんです。
 するとすぐに主審の「ヤメ」の声。試合が止められ、3人の審判が合議に入った。その結果、自分の打突部位を隠したということで、反則をとられてしまった。
 すぐに試合は再開されましたが、逆二刀者の動揺が見て取れる。先ほどまでの落ち着いた試合運びができなくなってしまったよう。無駄打ちが多くなり、結局、有効打突なく引き分け。

中堅戦


 「先鋒で一勝は堅い」。そんなことを考えていた自分が恥ずかしくなりました。
 もう私が勝つしかない。大将は、左アキレス腱断裂の大ケガから復帰して3カ月しかたっていません。チーム再結成のため無理に出場してくれたようなもの。私が勝ち点を挙げられなければ、大将にチームの勝敗を全て背負わせてしまうことになる。
 そんなことはさせられないという思いが、沸々と湧き上がってきました。

 私のお相手は、身長が190cm以上あろうかという20歳代の方。私とは親子ほど年が離れています。
 試合が始まりました。(添付動画参照)
 すると、すぐに「面あり」という主審の声。一瞬戸惑いました。
 私は大刀で面を打った感触はあるのですが、どのような場面でどう打ったのかが自分で分からない。素早いお相手の動きに、身体が勝手に反応してくれたみたいです。これでまず一本先取。
 しかしその後、お相手ともつれたところで押されて転倒。受け身をとれずに、後頭部を床に強打してしまった。意識はちゃんとあり痛みもなかったので、主審に問題ないことを伝えて、試合続行。
 なぜかこれをきっかけに、ますますエネルギーが湧いてきた。笑
 絶対にもう一本取ってやる!そう思いながらも、心は非常に冷静で、お相手の動きがよく見えました。
 長身と長いリーチをいかして次々と打ち込もうとするお相手の剣を小刀でさばいていく中で、私の「攻め」にほんの一瞬、打突を躊躇したお相手。再度打とうとしたその刹那を、「出ばな面」で仕留めた。審判の旗も3本あがっていて、これで二本勝ち。

 自分の役割を果たすことができた安堵感はありましたが、心配なのは大将の万全ではないアキレス腱の状態です。

大将戦


 ここまで来ると、実際問題として、勝敗よりも大将のケガのことの方が心配になってしまうんですね。事情を知る誰もが、そう思っていたんではないでしょうか。年齢も60代半ばですから。
 お相手の選手は、20代後半と思われる高身長で体格のいい選手。強く体当たりされればひとたまりもありません。
 「ケガだけはしないでほしい」。祈る気持ちで見守る中、試合が始まりました。

 やはり左足をかばいながらの、戦いには無理があります。お相手はスピードと瞬発力がありますから、打突すればその勢いで体当たりすることになる。故意ではなく自然にそうなる。
 すると、こちらの大将は、足で踏ん張ることができませんから、ヨロヨロと下がって場外に出そうになるんですね。その姿を見て、「もうそこまでして、頑張らなくてもいいですよ」と心の中で叫びました。
 誰よりも"勝つ"ということに執着している人なので、もう格好なんて気にしていないんですね。そんな身体の状態でも、果敢に攻めています。決して逃げることはしないのです。
 その戦いぶりに心を打たれたのは私だけではないと思います。見ているほとんどの方が、こちらの大将を応援していたと思います。

 そして、試合時間終了の合図。なんと引き分けに持ち込んでしまった。繰り返しますが、お相手は青年の部を制したチームの大将、強豪校出身の若手です。
 まあ、ホントにすごいおじさんです。この瞬間に、私たちのチームの総合優勝が決まりました。 
  

おやじ旋風巻き起こる


 本当に素晴らしいチームワークで達成できました。同じチームで2度目の総合優勝です。
 壮年の部の優勝に関しては、これで4度目。今大会、私たちのメンバーは誰も負けていません。"引き分け"か"勝ち"。チーム全員でつかんだ勝利の喜びは、個人戦のそれとは全く違うものですね。

 こんなおじさんたちと若者が、真っ向勝負できる剣道って本当に素晴らしい!


追記
 今大会中、先鋒の逆二刀の方が反則をとられた件。これは、反則以前の問題です。
 ご本人は、「俺は小刀なしでも、お前と戦えるぞ」という挑発の意図があったと思う。
 この方の師匠(故人)は平成の高名な二刀者でしたが、頭上高く大刀を上げたりして威嚇や挑発をする方だった。鍔迫り合いのルールも無視するし、抜刀や納刀の所作も自己流で、残心もしないというスタイル。
 高名な方や地位の高い方が誤った行為をしていても、指摘されたり注意されたりしないということ、よくありますよね。
 その"誤った行為"を見て、誤っていると気づく人は賢明ですが、「あの方がやっているんだから正しいこと」と認識してしまう人がいるんですね。
 剣道での〈攻め〉と、威嚇や挑発はもちろん違います。剣道では、威嚇や挑発は失礼なこと。
 同じチームの方ですが、学んでいただきたいと思います。


2019年10月4日金曜日

白血病 退院から1年10カ月でランニング再開

「走れる」までには意外に時間がかかった


これが現実、体力が完全に戻るのはまだまだ先


 病名は、急性リンパ性白血病 フィラデルフィア染色体異常。(闘病の様子はこちらから)
 2017(平成29)年12月に、8カ月間にわたる抗がん剤治療を終えて退院した。(退院時の様子はこちら

 その時に、まず直面した問題が……
 
 「うまく歩けない」

ということ。
 入院中は、抗がん剤の影響で筋肉は破壊され、起き上がることもつらい状態。それでも無菌室のベッドの脇のトイレに行ければなんとかなりました。
 しかし、帰宅すればそうはいきません。復職に向けて、リハビリが必要になる。まずは、歩けるようにならなくてはならない。
 自分が元々どういうふうに歩いていたか、歩き方が解らなくなっちゃうんですね。筋力が落ちてまともに歩けない。体力もない。まさに"よちよち歩き"といった感じです。

退院から5カ月で復職、剣道も再開


 リハビリとして散歩を日課にして5カ月。距離も最初は数十mから始めて1㎞くらいは歩けるようになった。

 会社からは、「しばらくは体への負担の少ない内勤のみで」という配慮をもらって、早期に復職することができた。
 同時に、大好きな剣道も再開。当然、全力ではできませんので、リハビリの延長という感じでしょうか。ごく短時間で軽い稽古だけ。それでも、稽古をすれば疲労の回復には時間がかかる。道場に行った後の3日間は体が怠い。

 しかし、この頃は「もっと早く体力をつけたい」と焦るばかりでした。なにしろその1カ月後に、市民剣道大会に出場すると決めてしまっていましたから。今から考えると、無謀な決断でした。苦笑(その時出場した市民剣道大会の模様はこちら

筋トレやランニングはできる状態ではなかった


 退院して歩くことから始めれば、徐々に体力がついて、筋トレやランニングもやれるようになると思ってました。しかし実際にはできません。剣道はできるのに(自分のペースでですが)、筋トレやランニングはやろうと思っても、やはり無理なのです。

 剣道は瞬間的にな動作がほとんどなので、年配になってもできる武道です。一方、筋トレやランニングとなると、そうもいきません。特にランニングは持久力の問題なので、病み上がりの身体には負荷が大きすぎる。
 それにしても、走れるような気配が起こらないまま、退院して1年10カ月がすぎようとしていました。

走らなければ走れないまま


 退院後に剣道を再開できた喜びで、稽古を続けてきました。しかし、最近になって自分の技量が後退していることを自覚するようになったのです。
 以前と比較すれば10分の1程度の稽古量になっていますから、当然なのですが……。(大病以前の稽古メニューはこちら

 素振りや打ち込み、防具を着用しての稽古は、量は非常に少ないながらもやってます。今は取り組んでいないことと言えば基礎体力の強化、特に足腰の鍛錬です。
 白血病になる前は、道場での稽古がない日は、「ナンバ走り」で一日約8㎞走ってました。(ナンバとはこちら
 それを今はまったくやっていないのです。ですから、本来の足さばきや腰の入った打突ができなくなってしまった。

 技量後退の原因は解っていても、実際には走れない。走りたいけど走る力が沸き上がらないといった方が解かりやすいでしょうか。
 しかし、このままでは剣道が下手になっていく一方。

 「やはり走るしかない」

 9月に入って涼しくなったら、ごくわずかな距離でもいいから走ってみよう。
 そう決意したのは、2019(令和元)年8月のことです。

無理はしない


 9月に入ると、朝夕はめっきり涼しくなって過ごしやすくなった。
 仕事から帰って日没を待って走ることにした。夜に走るのは暑さ対策ももちろんですが、一番の問題は紫外線。

 抗がん剤の影響で紫外線にあたると皮膚が真っ赤になって"軽いやけど"になってしまうのです。実際に、退院直後に20分ほど散歩した時、12月でしたが日光に当たった部分(顔、首、手の甲)だけが腫れ上がり、後にシミになってしまったのです。
 以来、外出時にはUVローションは必携ですが、日光に当たらないことに越したことはありません。

 そして、もう一つ大事なことは、絶対に無理はしないということ。
 
 「明日もまた走りたいと思うところでやめておこう」

 以前のような限界に挑戦するような走り方はせず、この日の上限は1㎞と決めた。

走り方も忘れてた、でも楽しい!


 すっかり秋の空気に入れ替わったとある夜。
 ランニングシューズに履き替えて、川沿いのランニングコースに出た。

 「走ってみてやっぱりダメだったらどうしよう」

 そんな思いが頭をよぎる。

 ゆっくり走り始めてみる。走法はナンバ。片手刀法には必須の稽古。
 うまく走れない。「ナンバ歩き」は普段やってても、ナンバで走るのは難しい。歩いた方が早いくらいだ。

 いきなりうまく走れなくてもいい。徐々に筋力と走法を取り戻していけばいいのだから。

 やはりキツイ。500mくらいでやめておこう。明日もまた走りたいと思えるように。

 「今オレは、確かに走ってる」


2019年9月1日日曜日

令和元年 千葉県剣道選手権大会に出場!55歳二刀で‼

昨年(平成30年)に続き二度目の出場

令和元年8月31日 千葉県武道館 開会式前の画像
令和元年8月31日 於 千葉県武道館


挑戦はあきらめられない


 2018(平成30)年1月に急性リンパ性白血病の治療を終えて、4月に仕事と剣道を再開。9月に千葉県剣道選手権大会に54歳で初出場しています。(そのときの模様はこちら
 そして今年(令和元年)8月31日、二度目の出場をしました。

 今回の出場は非常に迷いました。というのは、稽古不足が否めないということ。

 前回は、大病から社会復帰できた喜びで、夢中で参戦しました。抗がん剤治療の影響による肺炎で入院していた直後の大会だったにもかかわらず。(その様子はこちら
 あれから一年。今はだいぶ冷静になってきました。それは、どれくらい無理をするとどれくらい体調が悪くなるかが、分かって来たということです。

 現在は、医者から食事や運動の制限は受けていません。しかし、当然ですが以前とは体調が違います。仕事のし過ぎ剣道のし過ぎが、翌日の体調に如実に表れる。疲労の回復に非常に時間がかかるようになってしまったのです。

 白血病の原因は解明されておりませんが、癌の一種ですから過労やストレスが一因であることは想像できます。すると、どうしても稽古量をセーブしなくてはなりません。
 気持ちとしては、大病する以前と同じ稽古量をこなしたいのですが、10分の1程度になってしまっているのが現状です。(以前の一日の稽古メニューはこちら

 この3カ月前に出場した浦安市春季市民剣道大会では個人戦で準優勝していますので(その模様はこちら)、千葉県剣道選手権大会の出場要件は充分に満たしていますから、あとは自分の決断次第。
 となれば、やはり挑戦を回避することはできない。私の性格上、当然この結論になりました。笑

会場入り


 前回は初出場ということで、会場入りするときから勝手が分からず、緊張しっぱなしでした。しかし、今回は心にゆとりを持って千葉県武道館に到着、会場入りできた。

 まずは、受付けを済ませて竹刀計量・検査へ。
 二刀で使用する竹刀の規定は一刀のものとは違うので、検査員の方々に手間をとらせてしまいましたが、提出した大刀二本、小刀二本ともすべて合格。今年度からは、竹刀の規定が新基準に変更されているので、持参した竹刀がすべて不合格になっている方も見受けられました。

 開会式が始まるまでは時間がありますので、ゆっくり着替えて準備運動とアップ。
 しかし、前回に続いて今回も浦安市からのエントリーは私一人なので、心細いのなんのって…。早く試合が始まってくれないかなぁと思いました。苦笑

試合開始


 一回戦、私は第二試合場の13試合目。落ち着いてゆっくり準備する間に、いよいよ私の番が来ました。
 立礼から二刀を抜刀して蹲踞の姿勢になった。お相手の面金(めんがね)の奥の顔が見える。分かっていたことですが、私よりもはるかに若い、と改めて思ってしまう。
 この大会は全日本剣道選手権大会の千葉県予選も兼ねているので、出場者は20代~30代がほとんど。50代なんてほとんどいません。今回も私が最年長だったようです。

 「はじめっ」の号令で立ち上がって、すかさず攻め込む。前回、お相手の若さと瞬発力を警戒するあまり攻め切れなっかった反省から、思い切って攻める。

 足さばきは"歩み足"。これは古流の基本。年齢を重ねると"送り足"では攻め込みが遅くなる。陰陽の足が絶えず切り替わる"歩み足"での攻めには、お相手も対応を躊躇していると見えて、前に出てこない。(歩み足についてはこちら

 下がるお相手を追いかける場面が多くなる。そんな状況の中でも、虚(きょ)をついてお相手が反撃に出てくる刹那、その手元が一瞬上がるのが見える。
 そこを「小手」か「面」でとらえたいところだが、なかなか決まらない。前年も感じたことですが、この大会に出場するレベルの選手たちは動作の"起こり"が非常に判りずらい。いわゆる"色"を出さないから、機をとらえるのが非常に難しいのです。

 攻めてはいるが、キメめられない。

 時間だけが過ぎていく感じでした。
 そして、試合時間の5分を告げる合図。両者有効打突がないまま、延長戦に入った。

 下がるお相手を攻め込んで、機を見て打突したつもりが、さらに間合いを切られてしまう。ならば、誘ってお相手が出てきたところを仕留めようと足を止めた瞬間、お相手の竹刀が私の面をとらえていました。

 「面あり」

 審判の声。
 完敗です。お相手はそこを狙っていたんですね。
 ただ一瞬の機会を逃さない、その技量に納得の負けです。
 

試合を終えて


 前年の反省をふまえて、足を遣って攻め込み、お相手の構えを崩して手元を上げさせたところまではよかったのですが、一本を取る打突にならない。機を正確にとらえていないんですね。
 最後はくしくも前年の試合と同じ技で負けました。お相手の技を誘ったつもりが居付いてしまったのです。
 この辺をしっかり稽古していかなければなりませんね。

 一方で、心は晴れ晴れとしていました。
 前年のこの大会では、最後は体力がなく力尽きたという感じでしたが、今回は体力的にはまだいける状態。
 この一年間、稽古量をセーブしていたため、体力が回復していないんじゃないかな、なんて思い込んでいました。しかし、わずかですが体力の回復が実感できた。
 これは、大きな自信になりました。そして、出場してよかったと思いましたね。

 生きる喜び、再び剣道ができることへの感謝、改めて胸に刻みました。
 来年、またこの場所に立てるよう、"老体"にムチ打って稽古します。笑
 

2019年6月25日火曜日

平成30年 市川市民剣道大会 部門別3位 恩師の笑顔

大病から復帰して初めての市川の試合


新しい部門別


 この年(2018、平成30年)は、急性リンパ性白血病を克服して4月に復帰。(闘病の様子はこちらから)
 5月には、浦安市春季市民剣道大会に出場し部門別優勝を果たし(その模様はこちら)、9月には千葉県剣道選手権大会に出場している(その模様は、こちら)。

 そして、約300名が参加する10月の市川市民剣道大会。
 これまでは、個人戦は段位と年齢で9部門に分かれていましたが、複雑すぎるということで今回からは年代別に変更された。
 私は以前は「四、五段40歳以上の部」という部門でしたが、今回からは、「50歳代の部」ということになりました。(この時、私は54歳で四段でした)
 年齢的には近い方と対戦することになってよかったのですが、この部門の特徴は元気な高段者が多いということ。厳しい戦いとなりそうです。

会場入り


 会場に到着すると、たくさんの方々から声をかけていただき、大病から復帰したことを喜んでいただいた。
 その輪の中心にいた私を見つけて、満面の笑みでこちらに向かってくる方の姿が見えた。この時、市川市剣道連盟の会長だったTKHS先生だ。
 この方は、8年ほど前に私が初めて市川市の合同稽古に参加させていただいた時から、大変お世話になった先生。二刀遣いである私が市川市の稽古に参加しやすいように、配慮をしてくださった方です。そのおかげで今ではこうしてたくさんの方々と、市川で交剣させていただけるようになった。
 この日も、剣道を再開した私の姿を見て大変喜んでくださり、激励してくださいました。本当に心優しい、ありがたい先生です。

試合開始


 一、二回戦のお相手は、いずれも五段の方だったと思います。
 最初は試合のペースがつかめず、タイミングが合いませんでしたが、徐々に身体が動くようになり、有効打突がでるようになってきた。

 三回戦まで進み、試合場に入ると、対戦相手はもう待っていました。

 その対戦相手とは、中学高校の同級生で剣道部でも一緒だったJ君。
 彼も高校卒業以来剣道から離れていたそうですが、20年ほど前に"リバ剣"して、現在はもう剣道七段。
 面白い試合になりそうです。なんといっても、二人が対戦するのはほぼ40年ぶり。中学3年の時の部内戦が最後だったと思います。 

 お互いに年齢を重ねても、またこうやって対戦できるのは剣道ならでは。なにか時間が巻き戻ったような、照れくさいような、そんな気持ちでコート内に入った。
 しかし、互いに立礼から抜刀した時には、もう試合モード全開。旧友との対戦が始まりました。

 40年前と違ところは私が二刀であること。J君は中段の構えを変化させて、平正眼に構えた。
 正二刀に対しては、一刀者は「平正眼」に構えることがセオリーといえるでしょう。
 また、逆二刀に対しては、一刀者は「霞の構え」を執ることがセオリーとなると思います。
 
 平正眼は中段(正眼)の構えを変化させて、切っ先を中心から大きく右にはずして構えます。自分の「右小手」を防御しているような形になります。
 正二刀に対してこの構えを執る理由は、まず小刀で剣先を押さえられないようにするためでしょう。それと同時に「小手」の防御もできますし、構えた竹刀の位置を高くすれば「面」の防御も容易です。

 私は、そこを狙いました。「面」を防御した時を。
 防御に優れた平正眼に対してそのまま打っていっても、なかなか一本になるものではありません。
 どの構えでも立合いで大事なことは、相手の構えを崩すこと。
 平正眼の構えが崩れた状態とは、「面」を防御しようと手元を上げた瞬間です。この時に、右小手がガラ空きになり、打ちやすい位置にくる。

 しかし、そう思うようにはいきません。剣道七段ともなれば対二刀も慣れたもので、なかなか手元を上げてくれない。
 J君は高身長で180cmは優に超える。だから「面」が非常に遠く感じるのです。
 しかし、ここで「小手」に執着していては有効打突がとれないと思い、思い切って歩み足で攻め込んだ。そこで「面」を打とうかという時に、J君の手元が上がったのです。
 その刹那に私の体が反応して、大刀で「小手」をとらえてました。

 「小手あり」と主審の号令。その後すぐ、試合時間の終了の合図があり、一本勝ちに。
 40年ぶりの対戦は、辛くも制すことができた。

準決勝


 私の中ではJ君との対戦で、ひと山越えた気持ちになってました。
 続くお相手は、こちらも剣道七段の方。稽古では、たびたび交剣させていただいています。
 だから手の内は分かっている、これが慢心ですね。

 立合いが始まって、予想に反して技が決まらない。こんなはずじゃない、なんて思いながら、あせりだしてしまった。

 いつものように、先(せん)をとって「面」で仕留めようと、安易に打って出てしまった。
 お相手は、その"出ばな"をとらえたんですね。「面」を打たれたのは、私の方でした。ぐうの音もでないほどの、素晴らしい一本。参りました。

恩師の笑顔


 結果は、個人戦「50歳代の部」で3位。
 剣友の皆さんは、病み上がりでよくここまで戦ったと、ねぎらってくれましたが、悔いの残る試合になってしまいました。
 病み上がりと"慢心"は関係ありませんからね。しっかり、稽古し直します。

 そんな中、大会役員席から、私の立会いをずっとご覧になっていた方がいました。
 中学時代の剣道部の顧問だったTMI先生です。この時は、市川市剣道連盟の副会長になられていました。

 「見てたよ」

 表彰式の前に、満面の笑みを浮かべて声をかけてくださった。よく白血病を克服して戻って来てくれたと。
 そしてJ君と私は、恩師の前で同門対決をしていたのです。
 これには恩師も大変喜んでくださった。40年もたってご自分の教え子同士が立合うところが観れるんですから。感慨もひとしおだったんじゃないでしょうか。

 先生が、最も手を焼いた生徒ですからね、二人とも。笑

 (恩師とJ君に関する過去の記述はこちら

 
追記
 この半年後に出場した試合の模様は、すでに記事にしております。
 令和元年 浦安市春季市民剣道大会の模様はこちら

2019年6月23日日曜日

平成30年 浦安市春季市民剣道大会 白血病を克服して、復帰戦は優勝!

一年間の治療を終えて大復活


帰って来た「リバ剣おやじ」


 2018(平成30)年5月。浦安市春季市民剣道大会(個人戦)に出場しました。
 この1年前の2017(平成29)年4月、急性リンパ性白血病と診断され、入院。(その様子はこちらから)
 8カ月間の抗がん剤治療と1カ月間の放射線治療を受け、この年の4月に仕事と剣道に奇跡的に復帰。
 その1か月後に、市民大会出場となった。この時、54歳。

 実は、復帰した直後に市民大会があったから、出場したのではないのです。
 この大会に出場することを決意して、それに間に合うように復帰したのです。
 本当は、もっと自宅療養をした方が良かったのかもしれません。
 しかし、仕事も剣道も早く再開したくて、自分で期限を切ってリハビリしてました。

 この半年前に退院して、強力な抗がん剤の影響で低下した体力を元に戻すため、歩くことから始めました。
 "歩くことから"と言っても、実際にはそれしかできませんでした。
 走ったり、素振りや打ち込みもやってみたりしましたが、とても続けられるような状態じゃない。
 数カ月すれば、徐々に体力が戻ってくるものだと思っていましたが、そういうものではありませんでした。

 白血病は骨髄の癌ですが、特に急性白血病の場合は診断された時点で、普通の癌でいえばステージ4の末期なのだそうです。
 その状態から一気に全身の骨髄の癌を消滅させるために、致死量にも及ぶ抗がん剤を投与するわけです。残念ながら私が入院中に、同じ病気で亡くなられた方は何人も見てきました。
 幸運にも治療を乗り越えられたとしても、その強い抗がん剤を投与してきた後遺症と戦わなければならない。
 退院後にそういう現実に直面しました。

 体が完全に元の状態に戻るのは、数年後かも知れないし、一生戻らないかも知れない。
 ならば、完全に戻るまでは待っていられない。不完全な体でも、やり始めるしかないと思ったのです、仕事も剣道も。

 幸い私の場合は、今は食事の制限も運動の制限も、医師から受けているものはありません。なので、この大会の出場を目標にして、その前になるべく早く仕事と剣道を再開しようと決意していました。
 そして、実際に復帰できたのが大会の1カ月前となったのです。

試合当日


 1カ月前に復帰して、道場で稽古できたのは数回だけ。
 しかも、体力的には試合に出られるようなものではなかった。会場まで来ただけで、ゼーゼーハーハーという有り様。
 しかし、ご心配をおかけした皆さんに、元気になった姿を見ていただきたい一心で、ここまで来ました。

 会場入りすると、他の道場の皆さんから次々と声をかけていただきました。大病を克服して戻って来たことを喜んでくれた。ありがたさに目頭が熱くなりました。
 
 そんな私に、試練がまち受けていました。
 手渡されたパンフレットのトーナメント表を見て落胆することになるとは。
 一回戦のお相手が、一昨年のこの大会の壮年の部優勝者だったのです。実は、私はその時この方に負けています。しかも今回は病み上がりで、以前よりも条件が悪い。
 もうすっかりあきらめムードになってしまい、「一回戦で負けて早く家に帰って、体を休めなさいということだな」なんて思ってしまいました。

試合開始


 立礼から大小を抜刀して蹲踞。「はじめ」の号令で立ち上がって、上下太刀(二刀の代表的な構え、上段の構えの一種)に構えながら、右足を半歩前に出した。
 足の裏とつま先は、抗がん剤の影響でしびれていて、感覚がない。自分の足が今、どんなふうに床をとらえて接しているのかが、まったく分からない。
 しかも二刀は、片手で竹刀を保持しています。この手に力が入っていない。握力がないのです。
 こんな状態で戦えるのかと、自分でも思いました。

 しかし、状況が違うことに気がついた。攻めて相手を追い詰めているのは、私の方なのです。
 お相手の動きがよく見える。体力には自信がないものの、怖さは感じないのです。

 下がるお相手をさらに攻め込んで、その手元が上がったところを「小手」で仕留めた。
 そして、試合時間が終了し、一本勝ち。

 ちょっと自分でも信じられませんでした。どうしてこんな展開になったんだろうと。
 その後も、トントン拍子で勝ち進んでしまい、終わってみれば壮年の部で優勝していました。

壮年の部で優勝、そして総合の決勝へ


 部門別のトーナメントが終わると、最後は総合の決勝に。
 私のお相手は、青年の部で優勝した20代の強豪校剣道部コーチ。

 こんな体の状態で、ケガをしないで帰れるのかと思いましたよ。
 健康だった時も、現役選手とやる時は、少なからずそう思ってましたから、この状態ではなおさらです。
 しかし、逃げるわけにはいきませんから、腹をくくりました。

 試合が始まりました。
 私は、前に出て自分から打突の機会をつくることだけ考えた。そうすれば、あとは自然と体が動くだろうと。待っていては、現役選手のスピードに対応できませんからね。

 そんな中、互いに打突して体が接触した時に、私が大刀を落としてしまった。
 これで、反則1回。あと一つ反則を取られれば、お相手に一本がついてしまう。
 やはり、握力がないんです。こんなことで、竹刀を落とすなんて。

 ちょっと弱気になりかけましたが、気持ちを強く持ち直しました。
 そして、一足一刀の間合いから、さらに後ろにあった左足を一歩前に出しながら攻め込むと、お相手の動作の"起こり"が見えた。
 その瞬間、私の大刀の重心はお相手の竹刀の裏鎬(うらしのぎ)まで到達していました。そこから自分でも信じられないような力で、振り下ろした。

 「小手あり」

 審判の声が聞こえた。
 なんと先制したのは私。充分な手応えもありました。

 しかし、このあとがいけなかった。
 お相手は、このあと明らかに戦い方を変えてきた。このままでは分がないと思ったのでしょう。鍔迫り合いから体当たりを仕掛けて、私がバランスを崩したところを「引き胴」。これが一本になって、勝負に。

 私の体力が限界に達し、集中力を欠いたところを、竹刀で大刀をたたき落とされて反則に。
 先ほどの反則と合わせて、お相手に一本が入り、勝負あり。
 試合終了となった。

試合を終えて


 悔しさはありませんでした。 
 体力の限界までやりましたから。よくここまで出来たなと。
 「竹刀落とし」と「引き技」。総合の決勝では過去に何度もこれでやられているので、観ていた方たちにはどう映ったのかなぁなんて、心配になりましたけど……。

 閉会式を終えて着替えようとしていると、青年の部で準優勝された方が、声をかけてきた。
 「総合の決勝で"小手"を先制した時、会場からものすごい歓声が上がってましたよ。感動しました」
 観ていた皆さんがそういう反応をされていたのは、驚くとともに本当にうれしいことです。

 また、総合の決勝で主審をされていた先生は、「本当に、白血病で入院していたの?」っておっしゃってました。笑

 そして、大会役員席にいた審判長(剣道八段)も、周囲の先生方と私のあの「小手打ち」を話題にして、盛り上がっていました。二刀の「出小手」はどうやって打っているのだろうと。
 その輪の中に、身振り手振りでそれを再現しながら、笑顔でレクチャーする方がいました。この前々年の秋季大会で、私のチームが団体戦三連覇し、総合優勝までした大会の懇親会で、一人だけ笑顔のなかったあの先生です。市剣連のアンチ二刀、最後のお一人。(その様子はこちら

 しかし、もう"アンチ"ではないようです。帰り際に私に対して、「どうもありがとうございました」とあいさつしてくださった、満面の笑みで。
 正しい二刀をやっていけば、必ず伝わると信じてやってきましたが、こんなにも早く、皆さんに理解していただけるとは思っていませんでした。
 
 しかし、気の緩みは禁物。今後も見られ続けられますから、さらに精進しなければなりません。
 再び、剣道ができる喜びをかみしめながら。


追記
 この4カ月後の試合については、すでに記事を投稿しております。
 平成30年 千葉県剣道選手権大会出場の模様はこちら
 

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