2020年11月14日土曜日

剣道 作用/反作用の運動法則から抜け出る ~コロナ禍の再始動~

稽古自粛からの再開


稽古ができない


 2020年1月、仕事が多忙となり道場へ稽古に行く時間がとれなくなった。
 「またすぐに稽古に行く時間をつくれるだろう」
 そんなふうに安穏と考えていたところ、世の中の状況が変わってきた。お隣の国で未知のウイルスが拡散し、多数の死者が出ているという。
 2月には日本でも感染が広がり、外出自粛措置がとられ、道場も稽古休止になった。

 7月に入り、感染対策をして稽古再開する道場が出はじめた。私の所属する道場もその一つ。しかし私は急性リンパ性白血病の治療中のため、感染症にかかれば重症化は免れない。(私の急性リンパ性白血病闘病記事はこちら
 「もうしばらく状況を見極めてから再開しよう」
 そんな気持ちでいたのだが、それがだんだんと"言い訳"になっていると気づいてきた。

 道場が稽古休止の措置をとっても、自宅で"ひとり稽古"はできる。素振りはもちろんできるし、打ち込み台もある。
 5月ぐらいまでは自宅で”ひとり稽古”をしていたが、それだけでは煮詰まってくしモチベーションを上げることができなくなってきた。

 とうとうそれ以降は自宅で竹刀や木刀を握ることさえなくなっていた。

きっかけは妻のひと言


 「基本を一から教えてほしい」

 10月に入って、妻からこう言われた。
 息子が小1で剣道を始めたのをきっかけに、40歳を過ぎてから剣道を始めた妻は、三段を取得して以降は伸び悩んでいた。リバ剣してきた同年代の女性たちが次々と昇段していく中、このままではいけないと思ったらしい。
 
 以前は、私のアドバイスには一向に耳を傾けなかった妻。壁に突き当たってようやく稽古法を見直す決心ができたようだ。もう少し早く気づいてくれればと思うが仕方がない。しかし私にとってみれば、私自身の稽古再開のチャンスだ。妻の申し出を快く引き受けた。

 今から6年前の2014年、当時中学2年だった息子がやはり壁に突き当たって剣道を楽しめない時期があった。その原因は基本をおろそかにしているからに他ならないのだが、当の本人というのはまったくそれに気づかないものだ。あれこれと小手先の技を研究するという外道(げどう)にはまっている。見かねた私は、息子と一緒に基本を一から稽古し直すことを決意した。約一年間週一回2時間、二人だけの稽古をしたことがある。(その様子はこちら

 その時、使用したのが市総合体育館の剣道場だった。今回もここを借り切って、妻と二人で稽古することに決めた。中学までは弱小剣士だった息子が、その後は高校大学と剣道の強豪校に進学するまでになったが、果たして妻はどうなるか。

この稽古の目的


 息子の時と同様、この稽古の目的は作用/反作用の運動法則から抜け出し、反発の原理をもって動作を起こそうという身体運用を解除することだ。
 古流の身体運用を知らずスポーツ化した練習法をされている方々は、作用/反作用の運動法則を最大限に利用し、苛酷な反発動作に耐えうる肉体をトレーニングによって作っていることだろう。しかし、これでは必ず限界は来る。10代でその限界を感じてしまう人もいれば、30代で自覚する人もいる。たいていの人は、そこで剣道から心が離れてしまう。こんなにつまらない話はない。
 
 幸い私は幼少の頃に、古流の流れを汲む道場で剣道を習った。(その道場についてはこちら
 その頃に伝えられた剣道と今の剣道は、まったく違うものになっていると言ってよい。武道である剣道がスポーツ化の道を歩んで久しい今日、古(いにしえ)から連綿と伝えられてきた剣道(剣術)が下達(かたつ)の道を進んでいる気がしてならない。

 妻が身につけた「剣道」を見ていると、スポーツの訓練をしているようにしか思えないのだ。これでは運動神経が発達し、跳躍力や瞬発力がある若年層には可能だが、壮年には無理な話だ。この"訓練"が可能な年齢の人でも、そのうち限界は来る。
 戦国武士が敵と相対した時に、「跳躍力や瞬発力が低下したので戦えません」と言い訳するのだろうか。戦国武士にスポーツ選手のような引退はない。いついかなる時も、すべてを捨てて抜刀しなければならない事態に備えなければならなかったはずだ。

 話をもとに戻そう。
 作用/反作用の運動法則から、なぜ抜け出さなければならないのかについては、稿を改めて記述するつもりだ。
 ではその作用/反作用の運動法則から抜け出す方法、反発の原理をもって動作を起こそうという身体運用を解除する方法とはどんなものか。
 それは人が生活する上でもっとも基本的な動作を、深い次元にまで下りて変更することなのだ。

「ナンバ」の足法と刀法


 "ナンバ歩き"という言葉をご存知の方も多いと思う。日本人が江戸時代の末期まで、当たり前のように身につけていた歩き方であり身体運用法のことだ。
 明治維新になって身体運用にも変化をもたらす要因が起こってきた。和装から洋装へ、草履履きから靴履きへ、そして西洋式の軍事教練の導入など、“足裏で地面を蹴って前へ進む”動作を求められるようになった。その結果、上体をひねって腕を振りながら歩くという反発の原理を利用した身体運用法に変化してしまった。

 すると、日本古来の足法である「ナンバ」は日常の動作から消えていく運命をたどることになった。現在もかろうじてその足法が残されている分野としては、能楽、古武道、古流剣術、相撲などであろう。時代劇のプロの役者の方の中にも「ナンバ」の足法を身につけている方々を見かけることがある。

 日本の室町末期から戦国期にかけて確立された諸手刀法(両手で刀の柄を保持するもの)はこの「ナンバ」の身体運用がベースとなって生まれた刀法だと言ってよい。言い換えれば、日本人が「ナンバ」の動作を身につけていなかったら、あるいは身につけられなかったら、刀身一如の諸手刀法は誕生しなかったことになる。(刀身一如についてはこちら
 
 私が2010年に、30年のブランクから剣道を再開した時も、まず取り組んだのは「ナンバ歩き」の稽古だ。これは単なる歩き方の練習ではない。
 反発の原理をもって動作を起こそうとする運動法則を解除する「スイッチ」が体の中にあるのだが、その「スイッチ」を切り替えるために修めなければならないのが「ナンバ」なのだ。(過去の「ナンバ歩き」に関する記事は、こちら

二人だけの稽古


 2010年に剣道を再開してすぐに右ヒザの半月板を損傷して手術。(そのことに関する記事はこちら
 2017年には急性リンパ性白血病になり、約1年間の入院生活。(そのことに関する記事はこちら
 そして2020年、今回のコロナ。
 よくも稽古継続を阻むような出来事は次々と起こるものだ。しかしその困難を乗り越えるたびに、わずかだが成長させていただいている気がする。感謝しかない。

 妻と二人だけの稽古は、私が妻に剣道を教えるという偉そうなものでは決してない。剣道は、一心に稽古する本人が学ぶしかないと思っている。しかし、その土台となる部分は手ほどきを受ける必要がある。
 そしてなにより、私自身が基本中の基本をもう一度やり直す機会だと思っている。
 剣道に限らず、「理」を追求する者にとっては傲慢な考え方は命取りだ。いつも肝に銘じている。

 この稽古の初回で妻に伝えたことは、いかに足で地を蹴らずに移動するかという一点だ。
 これは、体さばきに課せられる最初の問題だ。足で地を蹴って前へ進むことは、作用/反作用の原理の運動法則に従ってしまうことだ。
 戦国期の流祖たちによって実行された「反発の原理の解除」。
 まずはこれを身に修めることが上達への道だと確信している。



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2020年4月19日日曜日

『五輪書』の序章に書かれた宮本武蔵の真意とは

地之巻冒頭に隠された真実を読み解く


古典を直訳しても意味が通じるわけがない


 古典に精通している方でない限り、すべてを原文で読むことは難しいと思います。
 約400年前に宮本武蔵が書いた『五輪書』は、原文と現代語訳が併記されたものが多数出版されています。通常は、原文を目で追いながら、現代語訳の方を読む方が多いのではないでしょうか。
 私もそのひとり。『五輪書』を初めて読んだのは高校2年のときです。(その時の状況は、こちら

 「この本の核になるもの、武蔵が伝えようとしているものが解らない」

 これが率直な感想でした。

 今から10年前の2010年、45歳の時に剣道を再開し、同時に二天一流武蔵会の門をたたきました。(そのきっかけは、こちら
 すると、実際に二天一流の稽古をする中で、ふと、あることに気づいたのです。

 「巷にあふれた『五輪書』の現代語訳は、ただの直訳だ」

 そうなんです。ただの直訳なんです。文芸評論家や東洋哲学者たちが古典である『五輪書』をただ現代語に訳した結果、そうなってしまっている。
 戦国期に誕生した剣術諸流派の流儀の概念や具体的な刀法を理解していない人たちが、歴史に実在した達人の書いた兵法伝書をいじくり回しているのですから、まことにひどい話です。(剣術諸流派の流儀、刀法についての記述は、こちら
 やられたほうの宮本武蔵も、たまったものではないでしょう。生涯をかけて思索しぬいて顕かにした思想を、まったく理解できない文章に変換されてしまっているのですから。

 それぞれの分野では“先生”と言われるような方々が書いた『五輪書』の現代語訳ですけどね、中学生の頃に英語の授業で長文をすべて直訳して失笑をかっている人がいましたが、それと何ら変わりありませんね、失礼ながら。
 私たちは、そんな直訳を武蔵の思想として読まされてきたわけですから、理解に苦しみ、武蔵を誤解してしまっている人さえいることは無理もありません。

 この稿では、今日の文章でいえば「序章」とか「前文」にあたる部分、『五輪書』地之巻の冒頭に書かれた武蔵の真意を、読み解いていきたいと思います。

地之巻冒頭の引用


 「兵法の道、二天一流と号し、数年鍛錬の事、始而(はじめて)書物に顕(あら)はさんと思ひ、時に寛永二十年十月上旬の比(ころ)、九州肥後の岩戸山(いわとのやま)に上がり、天を拝し、観音を礼(らい)し、仏前にむかひ、生国(しょうこく)播磨(はりま)の武士新免武蔵守藤原(しんめんむさしのかみふじわら)の玄信(げんしん)、年つもつて六十。
 我、若年(じゃくねん)のむかしより兵法の道に心をかけ、十三歳にして初而(はじめて)勝負をす。其(その)あいて新当流有馬喜兵衛といふ兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬国(たじまのくに)秋山といふ強力(ごうりき)の兵法者に打勝つ。廿一(にじゅういち)歳にして都へ上がり、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるといふ事なし。其後(そのご)国々(くにぐに)所々(ところどころ)に至り、諸流の兵法者に行合(ゆきあ)ひ、六十余度迄(まで)勝負すといへども、一度も其利(そのり)をうしなはず。其程(ほど)、年(とし)十三より廿八、九迄の事也。
 我、三十(みそじ)を越へて跡(あと)をおもひみるに、兵法至極(しごく)してかつにはあらず。をのづから道の器用有(あり)て、天理をはなれざる故(ゆえ)か。又は他流の兵法、不足なる所にや。其後(そのご)なをもふかき道理を得んと、朝鍛夕練(ちょうたんせきれん)してみれば、をのづから兵法の道にあふ事、我五十歳の比(ころ)也。其(それ)より以来(このかた)は、尋ね入(い)るべき道なくして、光陰(こういん)を送る。兵法の利にまかせて、諸芸・諸能の道となせば、万事におゐて、我に師匠なし。今此(この)書を作るといへども、仏法・儒道(じゅどう)の古語をもからず、軍記・軍法の古きことをももちひず、此(この)一流の見たて、実(まこと)の心を顕(あら)はす事、天道と観世音(かんぜおん)を鏡として、十月十日の夜寅(とら)の一てんに、筆をとつて書初(かきそ)むるもの也」(『五輪書』地之巻)

解説


 この文章に、異常人の猛々しい傲慢や幼稚な自己顕示を見てしまう学者がいることは、驚きです。著名な小説家までもがそう解釈する思考力は、大変弱々しいものと言わねばなりません。
 なぜそう見てしまう人がいるのか。それは、この文章があまりに正直で、正確で、まったくの裸のままの姿をしているからにほかなりません。

 いったい、武蔵は何のために、あの者に勝ち、この者に勝ち、二十八、九の歳まで六十数度の勝負に無敗であったということを、わざわざ書いているのか。
 そういう勝利が、「兵法至極」によるものではなかった、と言うためにです。
 ということは、二十八、九の歳までの自分自身を武蔵が全否定してることになります。

 勝ちは単に自分にそこそこの天分が、「道の器用」があり、相手がたまたまそんな自分より弱かったから。ただそれだけのことである。
 そんなことを六十数度も繰り返せば、もうたくさんになる。だから武蔵は自己の天分を試すようなそうした勝負を、三十を過ぎた頃にやめてしまった。
 武蔵は「至極」に達するために、偶然の勝負と手を切ろうとした。「器用」にまかせて勝ち続けていたのではわからぬ「至極」がある。彼はそう言っているのです。

 彼の敵は、「器用」の限りを尽くして彼を倒そうとする現実の相手です。自分に器用があるように、相手にもそれぞれの器用がある。立合ってみれば、自分の器用と相手の器用は同じ質のものであることがわかる。違うのはその程度、ほんのわずかな程度の違いなのです。
 それで、日々の生死がむごたらしく分かれる。この現実を何とかするものが兵法であり、武士がその探究に生涯をかけるに足るものだ。武蔵は、そのことが三十の頃にわかったと書いているのです。

 このとき、「器用」にまかせた立合いから、突如として「至極」への道が身体に向かって開かれたということがわかります。
 この「至極」への到達を成し切るために、武蔵はさらに二十年の歳月を費やしたと書いている。

 この間、彼はほとんど試合をしていないと言われています。武蔵自身も、試合をしたともしていないとも書いていません。
 ただこういうことが言えるのではないでしょうか。彼にとって真剣を執っての斬り合いは、兵法修行の過程から消えるものとなったと。
 人を活かし、物を活かし、おのれの身体のすべてを活かし、敵の働きのすべてをも活かし切って「勝つ」。あらゆる物を活かすことに勝つ「至極」への道が、ここに端を開くわけです。
 
 このように、極度に端的に書かれた文章を読むにつけ、自慢したり、謙遜したりすることに、彼は何の興味も持っていないことがわかります。
 戦国の世が終息しかかった時代に、自分はただ一人このような経験から出発してみるほかなかった。戦場での経験が数々の流祖を生み出した時代は、もう過ぎ去っている。
 それでも自分は一人の流祖たらんとして振る舞い、「兵法至極」を目指して生きた。
 戦国期の流祖たちが成した仕事を一から徹底して考え、やり直し、そしてひとつの思想体系に仕上げる。武蔵が「兵法の道」、「実の道」の名のもとに行なおうとしたことは、実にこの仕事なのです。(武蔵の思想については、こちら

 そして、自分の生涯は「実の道」を極めるという、このまったく明瞭な経験以外のものではあり得なかった。「実の道」は、兵法だけにあるのではない。およそ技術を持ち、道具を用いて生きていくあらゆる人間のあいだに無数の度合で存在する、ある語りがたい働きである。彼はそう言っているわけです。


 最後に、引用文の最終行に注目していただきたい。

 「十月十日の夜寅(とら)の一てんに、筆をとつて書初(かきそ)むるもの也」

 と、ありますが、寅の刻とは早朝四時半頃のことです。ここで注意していただきたいのは、武蔵は、早起きして『五輪書』を書き始めたと言っているわけではないのです。

 寅の一点とは、いわば「夜の空」と「昼の空」が切り替わる時です。その刹那に、自分の生涯をかけた書を書き始めたと言っている。
 夜と昼の「二天」が切り替わるとは、陰陽の円明思想に基づくもの。二天一流の意味を深く示唆しているのです。

 剣術(剣道)において、物毎(ものごと)が切り替わる刹那というのは、打突の機会になります。なぜなら、相手は攻撃も防御も出来ない瞬間だからです。その拍子になるように相手を動かし、「石火の機」をとらえて打突する。その瞬間は、こちらも一切防御なしです。

 この打突の機会は三つあり、二天一流では、

  • 待(たい)の先(せん) 相手の技が決まる刹那
  • 体々(たいたい)の先  相手の技の起こる刹那
  • 懸(かかり)の先    相手が居付く刹那

 と言います。現代剣道では、これを、それぞれ、技の尽きたところ(応じ技)、技の起こり(出ばな技)、居付いたところ(先制の技)と言いますね。

 この「寅の一点」(打突の機会)という概念が、武蔵の自流にとって最も重要な要でることを、示唆しているのです。

 武蔵が二天一流の名に込めた深い思いが、ひしひしと伝わります。
  

引用・参考文献
 『五輪書』宮本武蔵著、渡辺一郎校注、岩波書店、1985年
 『五輪書』宮本武蔵著、鎌田茂雄全訳注、講談社、1986年
 『五輪書』宮本武蔵原著、大河内昭爾現代語訳、Newton Press、2002年
 『武蔵の剣』佐々木博嗣編著、スキージャーナル、2003年
 『宮本武蔵 剣と思想』前田英樹著、筑摩書房、2009年


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2020年4月15日水曜日

宮本武蔵が現代人に遺したもの

「実の道」という思想

枯木鳴鵙図 宮本武蔵 再利用が許可された画像
枯木鳴鵙図 宮本武蔵

『五輪書』は何を伝えているのか


 宮本武蔵を理解する上で、現代人がいまだに吉川英治や司馬遼太郎の描いた小説の中に、武蔵の実像を求めようとすることは、まことに情けない話です。

 剣豪小説は大抵の場合、剣の修行によって人格的道徳的に成長した、あるいは優れている主人公が最後に勝つという落としどころ。負ける方はその逆で、人格的道徳的に劣ることになっている。
 これは、大正期に生まれた大衆小説に、作者が「剣聖」として登場させた主人公たちの人物像に根をもっている。もちろん当時の読者が求める理想像を、小説家が描いた創作です。(小説の中の「剣聖」についての記述は、こちら

 武蔵という人は、『五輪書』を読めば読むほど、お手軽剣豪小説の主人公になるような性質とは程遠い人だということがよくわかります。

 宮本武蔵は、後世の小説家が描いた「剣聖」などという尺度で語れる人物ではありません。
 『五輪書』は、武蔵が生き抜いた思想がどういうものであったかを示しているのであって、単なる剣術指南書とは違います。そうした兵法伝書たるものをはるかに超える性質をもっている。
 
 では、約400年前に武蔵が『五輪書』に託したこととは何か。
 その答えを解く鍵は、『五輪書』に繰り返し登場する「実(まこと)の道」というキーワードにあるのです。

武蔵が背負ったもの


 室町末期から戦国期に確立していった剣の流儀(流派)という概念。(流儀についての記述は、こちら
 その剣の修行の果てに得られるものについての、普遍的な徹底した思索にこそ武蔵の生涯は費やされたと言っていいでしょう。
 武蔵は、乱世が終息した時代にやって来て、乱世を超えたこの探究の普遍的な価値というものを、たった一人で思索せざるを得なかった。
 彼は、歴史の中に、そんな具合に生まれついた人です。

 武蔵は、兵法という自己経験の意味を、たった一人でどこまでも問い直しました。
 まず、自身の兵法で修得した手技を、自分を取り巻くさまざまな職の技の中で実行した。実行しただけでなく、それらの職能を根源において同じひとつの生にしているもの、彼の言う「実の道」の本体をつかみ取ろうとしたのです。
 それが、江戸時代という太平の世において、兵法者の固有の務めであると考えたからです。
 

明らかな対抗心

 常陸国鹿島・香取の社人共(ども)、明神の伝へとして流々をたてゝ、国々を廻(めぐ)り、人につたゆる事、ちかき比(ころ)の儀也。古(いに)しへより、十能・七芸と有るうちに、利方(りかた)といひて、芸にわたるといへども、利方と云(いい)出すより、剣術一通にかぎるべからず。剣術一ぺんの利までにては、剣術もしりがたし(『五輪書』地之巻)
ここで武蔵が「鹿島・香取の社人共」と言っている人々は、飯篠長威斎、松本備前守、塚原卜伝といった戦国期の剣客たちのことです。
 この道における彼らの功績は、誰もが讃えるところだが、彼らの見識は兵法を狭い武技の体系に閉じ込めている。武蔵はそう言っているのです。

「実(まこと)の道」とは


その、生活全般の「日常」から切り離された狭い芸事としての「剣術」を、つまるところ、よりよく生きることに関するひとつの普遍的な思想として顕かにし、武蔵が到達した境地。それが「実の道」だと言えると思います。

 武蔵の太刀稽古は、人を斬り殺すことを目的にしていない。木刀や撓(しない)の試合で、人の頭を殴りつけることも目的にしていない。
 稽古を通して、物を活かす道に勝つこと、ただそれだけを目的にしているわけです。
 
 武蔵がひたすら歩いたのは、道具(刀)の使用を深くする道でした。
 道具(刀)の使用を深くすることが、知恵を深くすることになる。その理を立証するため、道具(刀)の使用を深くすることが可能だと確信することから、武蔵による二天一流の太刀稽古は始められる。
 「実の道」は、人も物も活かしきる道で、何かを殺すことで成り立つ道ではありません。兵法者は人を斬るのではなく、斬らなくてはならない事態に、常にあらかじめ「勝つ」人でなくてはならない。これが武蔵の兵法思想です。

 地の利を活かし、武具を活かし、おのれの身体のすべてを活かし、敵の働きのすべてをも活かしきって「勝つ」。兵法において勝つとは、あらゆる物を活かす道に勝つことである。
 兵法は手技から出発しますが、手技のひとつであることをはるかに超えていきます。そして、すべての手技に貫通する道を知ることができる。
 兵法の目的は実にここにこそあるのだと、晩年の武蔵は確信していたようです。

武蔵の水墨画


 「兵法の利にまかせて、諸芸・諸能の道となせば、万事におゐて、我に師匠なし」

 そう言ってのけた人の描いた絵が、ページ上部の水墨画です。
 驚異の写実力です。
 この絵を目に焼き付けたあとに、ぜひ、美術館に足を運んで、他の有名画家の水墨画を観ていただきたい。それらの絵が、稚拙にさえ見えてくるのは私だけではないと思う。
 武蔵の描いた絵画の数々は、圧倒的な写実力をもって観る者を驚嘆させ、心を奪います。

 「実の道」を体現し、「兵法の利」にまかせて描いた者の絵が、ここにあるのです。

五つのおもて(五方ノ形)


 武蔵は「五つのおもて」と称する形(かた)を制定しています。
 剣術諸流派にはそれぞれ独自の形がありますが、現代剣道においても明治期に制定された形があります。

 武蔵は、上段、中段、下段、右脇構え、左脇構え、の五つを自流の「五方の構え」としていて、「五つのおもて」はこの五種類のそれぞれの構えから展開されることから、「五方ノ形」とも呼ばれている。

 宮本武蔵は「五つのおもて」(五方ノ形)が、また独り演じる形の稽古が、そのまま生きる目的や理由となりうることを、「実の道」という真に普遍的な思想によって明るみに出しました。
 彼の思想の普遍性は、目も眩むような単純さをもって「五つのおもて」に顕れている。

 何にも騙されることなく、「実の道」を思考しぬいた人間の最終の要約、最後の表現とも言うべきものが、そこにあります。

理に生きる喜び


 人間は近代において、第二の道具である機械を作り出しました。機械の特徴は、それを操作する身体がその使用を深くすることができない点にあります。できたとしても、その限界はすぐに来る。機械は手技を自動運動に変換させ、コンピューターはやがて身体を不要にしてしまいます。

 コンピューターに依存し、生物種としての運動図式を放棄した人間は、当然ながら体を使うことが嫌になります。そして、人間の体と外界との間にできた不自然な隙間が、体と心を不安定にしていきます。

 その“不自然な隙間”を作らず、天地と身体が繋がっていく生きる喜びを知る。その方法は、道具を使い切る身体の技をさまざまに生み出し、それにどこまでも習熟していくこと。
 そこで得た身体運用の法や心の在り方を、日常の生活において実行する。そのような人間本来の「理に生きる」ことが、心の喜びとなるのです。

 武蔵はひとりそれを「勝つ」と表現した。

 装置が付随しない単純な道具、例えば、刀や大工の使うカンナや手斧、料理人が使う包丁など。そういう道具は、その使用を深くし手技を磨くことができる。
 この世界に物事の流れがあり、流れの働きがあり、働きの「拍子」があるとは何かを、その修行の中で普遍的に知ることができると武蔵は言っているのです。

 その具体的な稽古法として、二天一流という武蔵の流儀があり、『五輪書』があり、五方ノ形がある。
 また、その証として、「兵法の利に任せて」作られた彼のおびただしい数の絵画や鍛冶作品があり、『五輪書』があり、剣の理合・理法があるのです。


 批評家小林秀雄は武蔵についてこう評しています。
 彼の孤独も不遇も、恐らくこのどうにもならぬ彼の思想の新しさから来ていると。
 近代の散文において、これほどはっきりとした自己表現を示した人は、兵法者はもちろんのこと、文人、思想家にだってそうはいないのです。

 約400年たった今、武蔵の思想の新しさは、理解しやすいものになっているでしょうか。なってはいないと私は思います。どのように説こうと説き切りがたい新しさが、今も彼の思想にはあります。


 流祖宮本武蔵先生が顕かにした「実の道」。その本体をつかむことを夢見て、今日も稽古に励みます。

 
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2020年4月8日水曜日

剣道には人それぞれの実現形がある

否定してはならないその人の実現形


他人との違いを認められなくなってしまった現代剣道


 剣理をどう体得しているかが、その人の現時点での実現形(じつげんけい)に表れます。礼法、構え、足さばき、打突、残心、そして理合。そのすべてにはっきりと浮き出てしまうのが剣道。
 ウソはつけませんし、取り繕うこともできない。だから心を開いて謙虚に今の自分をさらけ出すしかない。何年キャリアがあっても、段位が何段であっても、たとえ高段者であってもです。
 その不断の稽古によって、人間形成の道が開かれていくのが武道としての剣道。スポーツのように年齢が来たから現役引退、あとは高みの見物でご意見番に、なんてことにはならない。戦国武士たちに現役引退などあるわけありませんからね。いざという時は、すべてを捨てて抜刀しなければならなかったわけですから。

 その武道としての剣道が、スポーツ化している側面を持っていることを、危惧している人は多いと思います。(剣道のスポーツ化に関する投稿は、こちら
 その一つとして、画一化ということがある。他者との違いを認められない風潮のことです。

実現形の違いは戦国期に剣術の「流派」として現れた


 室町末期から戦国期にかけて、剣術には流儀(流派)が生まれます。新当流(神道流)、念流、陰流(これを剣術の三大源流と言います)に始まり、その後に登場する新陰流がその概念を確固たるものにします。
 さらにその後、一刀流流祖の伊藤一刀斎、二天一流流祖の宮本武蔵、示現流流祖の東郷重位らが、流儀(流派)の概念を先鋭化させていきます。

 これらの異なる流儀(流派)は刀身一如を原則としていて、体現している理の部分は一致していました。しかし、理に対するアプローチの仕方が異なるという点において、実現形にはっきりとした違いが表れていたのです。それは、各流儀に伝わる形(かた)を見れば明らかです。
 アプローチが違っていても到達した剣理は同じであったため、明治期に「剣道」として諸流派を統合することができたのだと言えるでしょう。(「刀身一如」についてはこちらをご参照ください)

剣道家にも「流派」があった時代


 私が剣道を始めた昭和40年代は、元に立っている先生方は、皆さん大正生まれ。例外なく古流のいずれかの流派に属している方々でした。そのためお一人お一人の剣風はまったく違うものでした。(その当時の様子は、こちら
 教え方も様々で、各流派ごとに特徴がありましたね。しかし、言わんとする理は同じ。ここが剣道の魅力であり、神髄なんです。
 そういった流派の違いを超えて、一堂に会して稽古し、教え教えられるのが剣道だった。

 見た目や剣風の違いにとらわれることなく、根底にある理をつかもうとしていたあの時代。今とは比べものにならないくらい道場に活気がありました。
 画一化して、一見するときれいにまとまっているように見える現在の方が、いろいろな意味で雑になっていますね。礼儀をおろそかにしている人が多いし、体現できなくなってしまった理合や刀法もあります。そのことに現代の剣道家が気づいていないことは問題です。
 現代の剣道指導者たちは、剣道を非常に狭い枠の中に押し込めていることを自覚しなければなりません。このまま画一化が進んでいけば、剣道においては「自然体」という言葉は死語になります。奇矯な動作を訓練して身につける、一部のアスリートのためのスポーツと化していくことになるのではないかと危惧しています。(「剣道のスポーツ化」については、こちらをご参照ください)

身体的理由としての差異


 話はちょっとそれましたが、一人ひとりの実現形が異なる理由として、骨格や筋肉のつき方の違いということがあります。
 以前、解剖学がご専門の医師が書かれた記事を読んだときに、ちょっと驚いたことがあるのです。骨格は、体の大きさや身長の高低がありますから、違いがあるのはわかります。筋肉は、鍛えられたものとそうでないものが違うのは明らかです。しかし違いはもう一つあって、それは筋肉がついている場所なのだそうです。

 筋肉は腱で骨とつながっています。その腱で骨とつながっている場所が、一人ひとり違うそうなのです。それも、ちょっとずれているというものではないそうで、驚くほど離れている場所についている場合があるそうです。
 それだけ違う場所に腱がつながっていれば、物理的に全く同じ動作をすることは不可能なのだそうです。

 野球のピッチャーを例に挙げると、昭和の時代まではサイドスローやアンダースローのピッチャーが活躍していたことをご存知の方も多いのではないでしょか。これも、それぞれの部位についている筋肉の腱の位置が違うため、最も速くキレのある球が投げられるフォームが、人によって違うというわけです。
 現在は、ほとんどのピッチャーがオーバースロースタイルですね。もともとオーバースローに適した位置に筋肉がついている人には良いわけです。そうでない人は、ピッチャーとしては淘汰されてしまう。サイドスローやアンダースローという選択肢が事実上ほぼ閉ざされているからですね。

 このように、変更不可能な身体的理由で、全ての人が同じ動作ができるわけではないのです。

感覚的理由としての差異


 指導者によって教え方が違うということはよくありますね。これは、前述した剣術諸流派のようにアプローチの仕方が違うだけで、伝えようとしている理は同じであれば問題ありません。
 一つひとつの動作の意味のとらえ方、解釈の仕方は、皆が全く同じわけではありませんね。人それぞれ微妙に違う。それが指導にもはっきり表れます。

 また、指導を受ける側も、受け取り方が完全には一致しないのは言うまでもありません。人それぞれの解釈は違う。同じ段位でも剣道のとらえ方の深さは異なるのです。
 自分と同じようにとらえている人は、自分しかいないということですね。

 そういった感覚的な要因でも実現形に違いが表れます。

現代剣道においても剣風に違いがあって然るべき


 このように剣道を理解する深さが、他人と100%一致することはあり得ないことですが、それを自分と同じように理解させようと言葉で諭そうとするあまり、相手を全否定してしまう高段者がいることも困ったものです。
 人それぞれの実現形が"正しい"と言っているではありません。他人の今現在の実現形を尊重し、さらに上達することができる稽古をしてあげることが大切なのです。
 必要なのはお互いに理を追究する謙虚さであって、現段階の実現形の違いを否定することではないのです。

理の追究の機会を閉ざされてしまう人がいる


 剣道を画一化平均化しようとすることによって、結果的に他人との比較に終わるようなことになっている気がします。相対評価なんですね。これは評価する側もされる側も相対評価が基準になっている。

 評価する側(指導者)がそうなるのは絶対評価をする能力がないからです。自分とは違う剣風にとらわれて、理の体現を認識できない。認識できていたとしても、剣風の違いをことさらに問題視する方は多いですね。

 一方、評価される側にはさらに深刻な問題が表れます。指導者が相対的基準で指導しますから、指導を受ける側も自己評価を相対的基準で行なう癖がつきます。
 他人ができて自分ができない動作や技、試合に勝てないこと、あるいは強かった子が勝てなくなるなど、こういったことが気になり始めると、剣道をやめるきっかけになりますね。小学校の高学年あたりや、中学1年、高校1年でそういうことになってしまう人が多いのは大変残念なことです。(私の息子も剣道への情熱を失いかけた時がありました。その様子は、こちらをご参照ください)

 他人との比較で終わらないために、子供たちには理の体現という目標(喜び)とそのための稽古の意義を正しく伝えることが大事です。

剣理を教えることはできない


 剣理とは体得するものであることは言うまでもありません。他人に教えることはできない。教えられるのはせいぜい剣理を体得するための稽古の仕方ぐらいではないでしょうか。あとは本人が心を開いて一心に稽古するしかない。理をつかむのは本人なのです。

 ですから、他人に翻弄されないために、正しい稽古、自分に合った稽古法を見つけることは重要です。そのために、古流を学ぶことはたいへん有意義だと思います。

 前述した通り、剣道とは明治期に剣術諸流派を統合してできたものですから、剣道にとって古流は“親”です。さかのぼってルーツを知れば、おのずと現在が見えてくる。剣道で当たり前のように指導されている一つ一つの動作の深い意味を知れば、稽古で得られるものが全く変わります。「古(いにしえ)を稽(かんがえる)」という稽古本来の意味を知ることになるでしょう。
 

理にかなった剣道を目指して


 結局のところ基準は、自分の剣道が理にかなっているかどうかです。
 理にかなっていることを立証する行為が、理合の体現ということになる。
 それが喜びとなり、相手はその喜びの共鳴者となる。これが剣道のおもしろいところ。

 例えば新陰流にあっては、勝敗は創造された運動世界の切り離せない「表裏」のようにして成り立ちます。敵手はあたかも進んでこの世界の成立に協力するかのように動かされる。敵の太刀筋が差し込む光なら、自分の太刀筋はその陰のごとくに働く。勝つことは、この光を十全ならしめる陰となることにほかなりません。

 そのための実現形の次元や水準が人によって違うのは当然のこと。堂々と今の自分をさらけ出すことの何がいけないんでしょうか。
 他人との実現形の違いから何かを学ばなければならないのは、それを否定している人のほうではないでしょうかねぇ。


追記

 以前、ある方からこんな話を伺いました。

 その方は、30代の前半で剣道六段を取得しましたが、そこから七段へはなかなか昇段できず、20年が経ってしまったそうです。その間、あちこちの八段の先生の道場に伺っては指南を受けていたそうですが、迷いの心が次第に強くなってしまった。

 そのようなころ、友人に誘われて地元近くの道場に出稽古に行ったときに、稽古をお願いしたのがTNK先生。なんと、私の小学生時代の恩師。(TNK先生については、こちらをご参照ください)
 その方が迷いの中で剣道をしていることを見抜いたTNK先生に、ある言葉をかけられたそうです。その瞬間、暗闇の中でもがいていた自分に光明が差したとのこと。
 そして、TNK先生のもとに通うこと一年。見事、七段に昇段できたのだそうです。20年ぶりの昇段にその方はたいへん喜んでおられました。

 初対面のTNK先生にかけられた言葉は、こうだったそうです。

 「〇〇さん、自分の剣道をやりなさいよ」


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2020年3月20日金曜日

剣道 刀身一如の大原則

日本独特の刀法


土台となる概念


 剣道に関する書物を読んでいると目にすることがある「刀身一如」という四文字熟語。この解ったようで解らないような言葉の意味とはどんなものなのでしょうか。

 この「刀身一如」という四文字熟語はもともとあった思想に後付けされたものです。読んで字のごとく、刀と身体が一体となって、という意味です。
 その元となる概念は、約400年前に戦国流祖たちや上泉伊勢守、宮本武蔵らがそれを顕かにしております。彼らは概念だけでなく、それを実現するための刀法と理合を体現した人たちです。

 現代剣道では、後付けした「刀身一如」という言葉のイメージからか、抽象的な表現で解説されることが多くなってしまったような気がします。禅に影響されたようなインテリぶった理屈をつけて、自己満足を披瀝しているような解説を、剣道誌などに寄稿している剣道家がいらっしゃいますね。
 しかし、「刀身一如」は、不断の稽古の中で、もっと具体的に伝えられるべきものだと思いますし、本来はそうであったと思います。

 古流はもちろん現代剣道を稽古する上で、この概念を正しく具体的に知ることは、一生をかけて稽古するための、揺るがない土台作りになると思います。そういった意味において、この稿では刀身一如を剣道の"大原則"と位置付けることにします。

戦国流祖たちが到達した境地


 皆さんご存知の通り、現在の剣道は、明治期に剣術諸流派を統合したものです。江戸期には数百といわれる流派がありましたが、その源流となった流儀が新当流(神道流)、念流、陰流の三つです。この三大源流が登場する室町末期から戦国期に、刀法の革新的な変更があったことは、前回のコラムで書きました。(前回のコラムは、こちら

 室町中期以前は片手で刀を操作していたものを、諸手(両手)で操作する刀法に変更した。片手刀法から諸手刀法へと刀法が変更したその理由は、あらゆる敵に“あらかじめ勝つ、勝つ必然を得る”ためにです。しかし、そのために単純に片手から諸手(両手)に替えたというものではありません。
 いかなる場面でも敵を制するために流祖たちが到達した境地、それが刀身一如。その刀身一如を体現するために諸手刀法という日本独特の操法にたどり着いたということです。

刀身一如とは


 刀を諸手(両手)で持つ目的はひとつ。敵を斬るために身体が移動する、その移動の力と刀の働きを完全に一致させるためにです。身体の移動軸が敵に向かって動く。その動きが刀を通して敵の心と身体を崩す働きとなる。
 具体的には、相手と正対し、身体をひらかず腰を入れ、機をみて身体もろとも打ち込んで仕留める。その瞬間、防御は一切なし。まさに捨て身の刀法なのです。

 現代剣道では、初心者に対して竹刀は両手で握るものと教えますね。だから刀を両手で持つに至った経緯が分からない。諸手刀法の目的、刀身一如の深い意味が伝わりにくいという側面があります。

武蔵は刀身一如を否定したのか


 一方、宮本武蔵は、戦国流祖たちが世を去ったころに生を受け、江戸初期に生きた人です。いわば、刀身一如の諸手刀法が全盛となっていた時代。そんな時代に、二刀を自流の原則とし、「やっぱり刀は片手で振るものだ」と言って、諸手刀法を否定した人です。

 では、武蔵は、刀身一如の原則まで否定したのでしょうか。

 武蔵が著書『五輪書』の中で説く「兵法の身なり」、「足づかひ」、「目付け」、「太刀の持ちやう」、「太刀の道」。それぞれの節には、刀身一如を体現するための具体的な稽古法が解説されています。
 つまり、武蔵の二刀は単なる片手刀法への回帰ではなく、戦国流祖たちがもたらした刀身一如という深い革新を、極めて厳密に受け継いでいる。(武蔵は、実際に、幼少期に養父から当理流という諸手刀法を仕込まれているのです。)しかも二刀を用いることによって、戦国流祖たちの革新から受け継いだ運動感覚を、むしろ一層鋭く、自由なものに研ぎ上げようとした。実際、彼はそれを生涯をかけて体現することに成功しているのです。
 

外道に陥らないために 


 このように、諸手刀法でも片手刀法でも、一刀でも二刀でも、刀身一如は共通の原則であることが解ると思います。現代剣道においても、それが連綿と受け継がれており、これからもそれを伝承していかなければならない。これが日本の伝統文化としての剣道の核心部分なのです。

 しかし、残念なことに、刀身一如の大原則を無視するような稽古の仕方に明け暮れている人たちがいることも事実ですね。小手先の技やフェイント技に勝機を見いだそうとして、あれこれと奇妙な技をひねり出す人たち。
 こういった外道(げどう)といわれる者の特質は、理から離れて自分の勝手な空想から物事を裁断することにあります。
 相手の間抜けが原因で、たまたま勝ったに過ぎない幾つかの経験から、技をでっちあげる。自分では達者に立ち回って素人を欺き、大いによろしくやっている気でいるのかもしれません。しかし彼らは、俗世の幻想を維持する駒のひとつとなって、走り回らされているに過ぎないのです。
 その外道たちの行く末は皆さんご存知の通り。自分の技が通用しなくなって試合に勝てなくなったり、格下の者に打ち込まれるようになったり、昇段できなくなったところで、剣道をやめてしまう。稽古すべき正しい方向を、はるか前に見失っているからなのです。

 いにしえに流祖たちが具現化した刀身一如。その大原則を心に刻んでいれば、稽古すべき道は、目の前にはっきりと現れてくるのではないでしょうか。

 この稿も、最後に武蔵の言葉を引かせていただきます。
 手をねじ、身をひねりて、飛び、ひらき、人をきる事、実(まこと)の道にあらず。人をきるに、ねじてきられず、ひねりてきられず、飛んできれず、ひらいてきれず、かつて役に立たざる事也。我(わが)兵法におゐては、身なりも心も直(すぐ)にして、敵をひずませ、ゆがませて、敵の心のねぢひねる所を勝つ事肝心(かんじん)也。能々(よくよく)吟味あるべし。(『五輪書』風之巻)


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2020年2月29日土曜日

刀法は片手から諸手に変更された ~そして今、剣道で片手刀法を伝承する~

元来、刀剣は片手で操作するものだった

太刀 画像 著作権なし
〔写真1〕鎌倉時代の太刀
日本刀 画像 著作権なし
〔写真2〕江戸期の打刀拵


刀は片手で振れないという人たち


「日本刀は片手では振ることはできない」「片手では斬れない」

 剣道をやっていてこんなことを聞いたり言われたりしたことがある方、いらっしゃると思います。剣道家のほとんどが諸手保持刀法で剣理の稽古をしていますから、このような思い込みが生まれてくるんですね。
 ご自分が片手で竹刀(約500g)を振ることができないものだから、日本刀(約1㎏)を振ることなんてできるはずがないと決めつける。
 するとそれ以外の刀法を認められなくなる。それ以外とは、片手で刀(竹刀)を振ることです。

 そういった誤解や偏見は、昭和40~50年代にピークになります。片手で上段に構えて片手で打突する「片手上段」や、両手に一本ずつの竹刀を持って同時に操作する「二刀」が、この頃に絶滅の危機に瀕しました。(その様子はこちら

 現在は、全剣連の努力もあって、二刀に対する誤解や偏見はかなり少なくなっていると思います。しかし、
 「片手で振ったり打ったりできるのは、竹刀だからできること」
 「日本刀でそんなことはできない」
って公言する人は、今でも意外に多いのです。

 本当に、日本刀は諸手(両手)でしか操作できないものなのでしょうか。

刀を扱う武道


 現代剣道では、刀を執っての稽古はまずありません。刀といえば居合や抜刀術などになると思います。

 居合や抜刀術の形(かた)の演武を観れば、日本刀を終始諸手で操作していないことはすぐにわかります。特に、抜きつけ(初太刀)は片手です。重い真剣を片手で振っているわけです。そして二の太刀で諸手で斬り下ろす。現代剣道のように、終始諸手刀法に執着している剣の操法ではないんですね。
 また、試し斬りの演武では、巻藁を見事に片手で斬っていますね。片手では斬ることはできないなんて言う人は、これを見てどう思うのでしょうか。

 居合や抜刀術の醍醐味は「抜き打ち」です。日本刀を鞘から抜き放つ動作で相手に一撃を加える。この動作は、もちろん片手で行われます。諸手に構える暇はないのです。

 余談ですが、敵を片手で抜き打ちにするといえば、私たちになじみのあるものは、座頭市の抜刀シーンでしょうか。抜刀術の達人である座頭市が、諸手で斬るところなんて見たことありませんよね。(まあ、これは、映画の中のことですが……汗)

歴史的事実


 今日で言う日本刀が生まれたのは平安末期と考えられています。〔写真1〕はその時代の日本刀です。特徴は、片刃で反りがある刀身。そして、柄もまた刀の峰側に大きく反り返っていること。刃は下向きにして腰から紐で吊り提げます。ちなみに、それ以前の刀剣は大陸伝来の両刃(もろは)の直刀でした。
 この時代の合戦は馬上攻撃が主ですから、左手は手綱を引いて馬を操りながら右片手で刀を操作し、敵をなぎ斬りにします。刀身の反りや柄の反り返りは、片手でなぎ斬りにするためのもの。馬上からの攻撃に適した長刀になっています。

 一方、〔写真2〕は戦国から江戸時代のものです。いわゆる打刀拵(うちがたなこしらえ)です。刀身は反りが緩やかになりやや短く、柄は長くなり反り返りはありません。諸手で保持して、打つように斬るための刀。刃は上に向けて帯刀します。刀法が変更された証です。
 日本刀にこの特徴が表れ始めたのは室町後期、つまり戦国時代になってからです。

 その時代になぜ刀法が変更され、日本刀の形状が変化したのか。戦国武士たちに、いったい何が起こったというのでしょうか。

剣術流儀(流派)の起こり


 剣術には流儀(流派)というものがありますね。江戸後期にはそれが数百にも分化し、明治期に「剣道」として統合されるのですが、もともとの“源流”と言われているものがあります。それは、室町後期から戦国時代に誕生した新当流(神道流)、念流、陰流の三つです。
 ご存じのように、これらの流儀は諸手刀法を自流の原則とした最初の流派。よって、この時代に、刀法は片手刀法から諸手刀法に変更されたことがわかります。それと、〔写真2〕の打刀(うちがたな)の完成は軌を一にしているのです。

なぜ刀法が変更されたのか


 古来世界中の剣技が片手技なのはなぜか。片腕を伸ばし、身体を横に開いて構えることが、最も遠くから攻撃でき、自分の身を危険にさらすことを最小限にすることができる戦い方だからです。〔写真1〕の太刀はそのような戦い方のために造られた刀です。
 しかし、この片手技には理はなく、単に生まれ持った運動能力の差や偶然で、振り回す刀が当たれば勝敗が決まってしまう。負けるということは、そのまま死を意味します。
 そんなむごたらしい事態からなんとか抜け出したい、どうにかして勝つ必然をその原理を我が身に修めたい。戦乱に明け暮れた時代の武士たちが抱く当然の願いがあった。
 そして結果的に刀法は根底から変更され、一刀を両手で持つことを原則とする日本独特の諸手刀法が生まれたのです。

剣道はここを「稽古」している


 両手で刀を構え操作する理由は、刀が重いからではありません。
 その理由はひとつ。敵を斬るという動作、つまり身体の移動の力と刀の働きを完全に一致させるためにです(刀身一如)。(「刀身一如」の考察については、こちら
 その動きが、相手の心と移動軸を崩す働きとなる。これが戦国流祖たちが到達した諸手刀法の理想であり、それが現代剣道に連綿と受け継がれている。剣道の起源はここにあると、個人的には思うのです。(一般的に剣道の起源というと、日本国の始まりと同じように神話の世界にまでさかのぼってしまいます)

武蔵の片手刀法


 宮本武蔵は、諸手刀法が全盛となった戦国末期に生まれ、江戸初期に生きた人です。
 そんな時代に彼は、やっぱり刀は片手で振るものだと言っている。彼が創始した二天一流は二刀を流儀の原則とするという点で、他流と大きく異なっていた。ある意味、諸手刀法を否定した人です。このことの理由について、『五輪書』は実に明快に説明しています。
 太刀を両手に持ちて悪(あ)しき事、馬上にてあしゝ、かけ走る時あしゝ。沼・ふけ・石原、さかしき道、人ごみにあしゝ。左に弓・鑓(やり)を持ち、其外(そのほか)いづれの道具を持ちても、みな片手にて太刀をつかふものなれば、両手にて太刀をかまゆる事、実(まこと)の道にあらず。(『五輪書』地之巻)

また、なぜ二刀を執るのかについては、こう書き記しています。
 先づ片手にて太刀をふりならはせん為に、二刀として、太刀を片手にて振覚(ふりおぼ)ゆる道也。 (『五輪書』地之巻)
このように、二刀とは、片手刀法を修得するための稽古法だと言っている。左右の手に一本ずつ刀を持ってしまえば、両手で柄を握ることは不可能です。片手で振り続けるしかなくなります。
 武士は二刀を腰に帯びるものである。この二つの道具を使い切らずに死ぬとは、いかにも不本意、不真面目なことではないか、武蔵はそうも言っているのです。

武蔵の歴史的役割


 武蔵は単なる片手操法への回帰を謳ったのではありません。武蔵の二刀は、戦国流祖たちがもたらした深い革新、いわゆる刀身一如の大原則を極めて厳密に受け継いでいる。二刀を用いて稽古することは、その受け継いだ運動感覚を一層鋭く、自由なものに研ぎ上げるための手段にほかならなかったと思うのです。

 誰もが、勝負の馬鹿げた運で死にたくはない。では、何を知り、何に熟達することが、この偶然の底なしの闇に勝つことなのか。武蔵は戦国武士が多かれ少なかれ強いられたこの課題を、戦国期が収束した時代において、まさにひとつの思想問題として決着させようとした人物なのです。(この「実の道」という思想については、こちら

現代剣道で片手刀法を実践する


 現代剣道で片手で打突することは、もちろん可能です。一刀中段の構えから大きく振りかぶって、左片手で半面を打つ。または、諸手左上段から、左片手で面や小手を打つなど。
 しかし、これらは片手刀法とは言い難い。完全なる片手刀法ではなく、諸手での構えや打突も織り交ぜつつ、必要な時に片手技を遣うもの。

 一方、二刀は、一旦二刀を抜刀すれば諸手で持つことはできない。完全なる片手での操作を貫かなくてはなりません。現代剣道で、片手刀法を修練する、あるいは実践できるのは、二刀だといえるのではないでしょうか。
 言い方を換えれば、現代の剣道においても、片手刀法を伝承できる環境が残されているということ。これは本当に素晴らしいことだと思います。

 諸手(両手)、片手、どちらの刀法を稽古するにしても大切なこと。それは、勝つ必然を、その原理を我が身に修めたいという、剣技に法を求めた戦国武士たちの激烈な生涯があったということ。彼らに敬意を持たずして、剣道の稽古をするなんてあり得ないことだと思うのです。

 この稿の終わりに、今一度武蔵の言葉を引いておきます。
 人毎(ごと)に初而(はじめて)とる時は、太刀おもくて振りがたし。いづれも其(その)道具其道具になれては、弓も力つよくなり、太刀もふりつけぬれば、道の力を得て振りよくなる也。(『五輪書』地之巻)


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2020年2月17日月曜日

剣道 心を学べは上達できるのか

小説に描かれたことを本当のことと思い込む人たち


「剣は心なり、心正しからざらば剣も正しからず、剣を学ばん者は心を学べ」


 このフレーズを何かで見たり聞いたりした事がおありだと思います。
 社会人の講話や剣道漫画のセリフに引用されることが度々ある言葉です。最近では、中学生が剣道部の揃いの手ぬぐいに染め抜いたり、ポロシャツの背中にプリントしているのを目にしたりします。
 それなりに、人の心に響く力を持ったいいセリフなんですね。だから剣道経験が有る無しにかかわらず人々が耳にし、いまだに使われ一人歩きしている説教です。

 このセリフは、もとはといえば大正2(1913)年から新聞連載が始まった中里介山の『大菩薩峠』という長編小説の中に出てきます。島田虎之助という直心影流の剣客が、彼を暗殺しようと襲いかかる浪人たちを手もなく片付けたあと、彼が一味の首魁に向かって浴びせかけるセリフ。それが「剣は心なり、心正しからざらば剣も正しからず、剣を学ばん者は心を学べ」です。

 しかし残念ながら、このセリフは中里介山の創作です。小説とはそういうもの。取材や歴史的資料などで大枠を創り、想像や思いつきでストーリーを肉付けしていく。その時代の読者に合わせた表現が、至る所に散りばめられた作品が作り上げられるわけです。
 厄介なのが、創作と事実が混同しているので、作品を読んでいるうちに書かれていることすべてを事実として誤解してしまう人がいることです。

 例えば、坂本龍馬といえば、司馬遼太郎の小説に描かれた人物像が、我々の龍馬のイメージになっていますね。司馬遼太郎の小説を原作とした映画やドラマ、漫画などが多く作られたことが影響しています。
 しかし、実際の司馬遼太郎の小説のタイトルは「竜馬がゆく」。坂本龍馬の龍馬ではなく"竜馬"なのです。司馬遼太郎はご丁寧に、この小説の主人公である“竜馬”は架空の人物ですよと、前もってことわっているのです。
 また、宮本武蔵の生涯を描いた吉川英治の小説『宮本武蔵』。ここに登場するお通さんは実在しませんし、佐々木小次郎の人物像も史実にはありません。

 それが小説というもの。事実と注意深く区別しなければなりません。

剣道(剣術)は道徳的観念を押し付ける道具ではない


 話はあの「剣は心なり……」のセリフに戻りますが、江戸期から明治にかけての戯作本、講談本に登場する剣豪は、このような説教じみたセリフを決して口にしません。
 剣客に、剣聖というおかしな“理想像”を求めるようになってしまったのは大正期。大衆小説が一般化し、その書き手たちが読者の求めに応じて、自作に取り込んでいったことが始まりではないでしょうか。

 「剣は心なり……」のセリフを聞くと、道徳的には一瞬説得されてしまいそうになりますよね。しかし、よく考えればズレているんですよ。目的の遂行から物事を考えていないことは明らかですね。だから話が矛盾してしまっている。
 剣道(剣術)は観念のうちにはありません。実在する敵(相手)との戦いなのです。
 その戦いに勝つために、厳しく辛い稽古を積んでいる。それなのに、剣は心だ、精神だと粗雑な理屈に逃げ込んでしまっている。厳しい稽古に日々打ち込んでいる剣道家にとっては、実に失礼な話です。

 さらに、現在の若者たちが、このセリフを正しい剣道訓だと誤解してしまっていることは問題です。心を学べば剣道が上達できることになってしまった、あるいは剣道の強者は人格的にも優れているという幻想ができてしまったんですね。
 実際はそうでないことは、剣道をやっている者ならばわかりますね。しかし、このセリフは剣道訓だと疑わない若者、いえ、大人だってそう理解している人が多いかもしれません。

道徳は理ではない


 道徳とは、その民族の生活様式や文化を背景にして、人間相互の関係を規定する通念です。ですから国や地域が異なれば道徳も異なります。よって、道徳は理ではありません。
 稽古をするのは剣理を追求するのが目的。道徳を追究するのが稽古ではありません。道徳を学ぶのであれば、もっと違う方法があるはずです。

 宮本武蔵は著書『五輪書』の中で、大工の棟梁を例にとってこう言っています。
 深い精神があるから、よい家が建つのではない。よい家を建てるという目的、それに向かう行為の中に、日常の生活では隠れている深い身体や細やかな心の原則が顕れてくる。この目的はすべてに先行する。
剣術とは、敵を斬るという端的な目的のために生まれたものであることは言うまでもありません。
 それを朝鍛夕錬していく中で、身体や心の運用法に理が顕れてくるというのです。武蔵はなにも心の存在を否定しているわけではない。
 目的の遂行があってはじめて心が磨かれると言っているわけです。心が磨かれれば、目的が達成されるわけではないのです。

常に目的を明らかにする 


 「とにも角(かく)にも、きるとおもひて、太刀をとるべし」(『五輪書』水之巻)とは、武蔵の繰り返し説くところです。
 剣術(剣道)は説教の種ではない。深く厳しい稽古の中で、身体と心に顕れてくる理をつかむのだという。

 『五輪書』に記された武蔵の思想は、禅などのに影響された知識人風な理屈とは関係がありません。剣術(剣道)で学ぶべきことは何なのか、それを学べば(稽古すれば)何を知ることができるのか、武蔵は約400年前に明快に書き遺しているのです。

 繰り返しますが、剣道は説教の種ではありません。
 道徳的観念の押しつけで、剣道が上達するのであれば、誰も苦労はしませんね。


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宮本武蔵『独行道』「我事に於て後悔せず」を考察する

後悔などしないという意味ではない 布袋観闘鶏図 宮本武蔵 後悔と反省  行なったことに対して後から悔んだり、言動を振り返って考えを改めようと思うこと。凡人の私には、毎日の習慣のように染み付いてしまっています。考えてみれば、この「習慣」は物心がついた頃から今までずっと繰り返してきた...

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